六花(РИККА)春(18)号

バロフスク日本人会会報    りっか 六 花 рикка      2006・Vol.18


☆山本新会長&吉浦新幹事の就任のご挨拶☆
 

この度、ハバロフスク日本人会の会長を拝命いたしました、双日株式会社ハバロフスク事務所の山本光重と申します。岡田会長より大役を引き継ぐことになり緊張しておりますが、幹事をはじめ会員皆様のご協力を得て積極的に日本人会の活動を進めて行きたいと思っております。私自身ハバロフスクには1989−1992年に在住し今回は2度目の駐在です。 ロシアの木材を日本に輸入するのが私の主な仕事ですが、時代の流れにより資源輸出→加工輸出と産業構造に進化が見られます。日常生活でも17年前とは比較にならぬほど便利になりました。 町には高級車が往来し国際電話もすぐに通じ、スーパーマーケットも数多く出来、高品質の輸入品も(高価ですが)手に入ります。最近来られた方には想像もつかないでしょうがソビエト連邦崩壊のころは物資不足で店の棚は空っぽ、州政府から肉、野菜、生活物資の配給券が支給されたほど。仕事よりも生活基盤の確保に時間が費やされました。「今日、市場でいいジャガイモが売られてたよ。」との情報が入れば仕事を後回しにして行列に並びました。 今では物質的に便利になった反面、貧富の差も歴然となり治安が悪化しています。日本人が被害に遭うことも多くなりました。 現在約70名の邦人がハバロフスクに在住或いは定期的に訪問されています。昔とは異なり商社に限らず領事館、銀行、メーカー、教職、留学、教会とその年齢や職業も多様化しています。悩み事も様々でしょう。皆さんが明るく楽しく生活できる環境を守り、何か問題があれば気軽に相談できる、そんな「ハバロフスク日本人会」したいと考えています。 日本人が巻き込まれる被害の種類も多様化し泥棒やノックアウト強盗のほか、インターネットやWEB上の誹謗中傷など卑劣な犯罪も起きていますが、これに対しては関係機関のご協力を得て全力で対処いたします。
話が堅くなりましたが、私自身、人と話をしたりお酒を飲んだり、お祭り事が大好きですので皆さんの親睦、また地元のロシア人の方々との友好を深めるため、各種イベントを企画したいと思います。 皆様のご参加、ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。 
最後にハバロフスク在留の皆様のご健康とご健勝を祈念し、ご挨拶とさせて頂きます。 

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この度、ハバロフスク日本人会幹事を拝命いたしました、伊藤忠商事(株)ハバロフスク事務所の吉浦隆行です。幹事なんて役柄ではないのですが、任命された以上は、ハバロフスク在住の日本人皆様が、少しでも楽しくそして安全な日常生活をこの地で送れるよう、微力ながら努力させていただきたく思います。
私自身はハバロフスク駐在となり、まもなく一年が経とうとしています。仕事柄、海外駐在は当たり前なのですが、その地での生活が(とくにご家族帯同の場合)、上手く行くかどうかは、本当に在留日本人とのコミュニケーションに係っていると思います。駐在当初、右も左もわからない、文字すらろくに読めないこの私が、ここまで無事に充実した海外生活を送ってこれたのも、全て日本人会の暖かいご支援があったからだと確信しております。
生活に不便のない海外大都市でも、日本人同士のコミュニケーションは必要不可欠なものと言えますが、ましてやロシア・ハバロフスク。たった70人強の日本人、お世辞にも生活インフラが整備されているとは言えないこの地ですが、少ないからこそ一致団結して、より充実した生活を追及することが、個々の気持ち次第で容易と成ります。
繰り返しになりますが、日本人会の皆様が少しでも充実した生活を送っていただけるよう、ご尽力させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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【旧会長より一言】この2年間、みなさまの温かなお心遣いとお言葉に支えられて、バトンを、落っことさずに、山本さんにお渡しすることができました。みなさま、本当に有難うございました。山本さん、吉浦さん、どうぞよろしくお願いいたします。2年間にわたり会計幹事をお務めくださいました嵯峨さんがこのほどご離任なさりました。嵯峨さん、たいへんお疲れさまでした。たいへんお世話になりましてまことに有難うございました。後任の会計幹事は、このほど着任されました林大輔領事がお務めくださいます。林さん、どうぞよろしくお願いいたします。なお今期の役員は以下のみなさまです(敬称略)。(岡田和也)

名誉会長:長内敬総領事、会長:山本光重(双日)、副会長:千葉修一(みちのく銀行)、会計幹事:林大輔領事、幹事:前田奉司(日本センター)、原田かおり(極東国立人文大学)、川上徹(スミテック)、吉浦隆行(伊藤忠)、岡田和也(ロシヤの声)                           


☆六花版/HPの

 

http://samurai.hobby-web.net/2/ 極東国立人文大学日本語学科4年生ホームページ。「国際交流を求めて様々なイベントを企画しています。ご興味のあるイベントがあれば、是非、ご参加ください。」(原田かおり先生の推薦のお言葉)

http://habaro.blog54.fc2.com/ 当会OB太田丈博さんが立ち上げられたブログ「ハバロフスクを熱く語ろう」 

http://plaza.rakuten.co.jp/sovgavani/diary/ ロシア超極東日記。ソフガヴァニ在住の当会会員、久保田浩一さんのすてきなブログです。タタール海峡に面する港町の温かな息づかいが伝わってきます。

http://www.geocitiesjp/urajionihon/top.htm ウラジオストク日本人会。お隣さんウラジオの今が見えてくる。掲示板での情報交換もなにやら楽しそう。

http://www.khabarovsk.ru.emb-japan.go.jp/ 在ハバロフスク日本総領事館。当地の情報満載。

http://www.vor.ru/japanese.htm ロシヤ国営ラヂオ局「ロシヤの声」日本語放送。

http://homepage.mac.com/toshihak/sentatsu/t3000.html 落語ファン・ミルクの寄席めぐり&旅のエッセイ「ミルク亭」。ムールマンスクやコーカサス、最新版はハルピン&内モンゴルの旅!   

http://hisgan.fc2web.com 「六花」のバックナンバーが読めるサイ

http://hisada.blog3.fc2.com/ 上記サイトの管理人、Кудаさんのブログ。 

http://yokuryu.huu.cc/ シベリヤ抑留者名簿(作成者・村山常雄さん    telfax 025-566-2230 〒949-1352 新潟県糸魚川市能生6856-1  E-mail tmura@nou.ne.jp
(以下↓、以前「六花」にご寄稿くださいました福岡市在住の伊藤拓郎様がご転送くださいました村山常雄様のメッセージです。)

各位
私こと、この度はからずも、
『第40回吉川英治文化賞』を受賞することとなり、本日夕刻 6:00、(財)「吉川英治国民文化振興会」(事務局・講談社編集総務部)より発表がありました。
「吉川英治文学賞」はつとに有名でありますが、それと同時に創設されたという「文化賞」はその存在さえも知らず、突然のこととて驚きましたが、「授賞規定」の「日本文化の向上につくし、讃えられるべき業績を上げながらも、報われることの少ない人、または団体に贈呈する」との特に後段の規定には共感するところあり、また私が敢えて受賞することで、シベリアの野に無名のまま埋もる戦友たちの顕彰に少しでも貢献できるならと、身の程を省みず受賞することを決定した次第です。まことに予期せざる事態であります。
つきましては、日ごろご厚誼賜り、また私の作業にご声援賜りました皆様に、当然ご挨拶申しあぐべきことと判断し、ここに僭越ながら御礼をかねて御報告申し上げる次第であります。長年にわたるご支援誠に有難うございました。
                                                                                          2006年3月6日 村山 常雄


                                              ☆鈴木宣平さんからのご寄稿☆

同床異夢 

 結局自分は一人だった、と感じたからだった。 愛し合っていれば立ちはだかる困難は克服できるとロマン小説の解説で読んだが、どんなに相思相愛で、同じひとつのベッドに寝ても見る夢は別々(The horse thinks one thing, and he that saddles him another)は当然だった。 この世の人間の愛なんてこんなものだということを知ることとなった。 
   ハバロフスクをきっぱり捨てて、日本でおとなしく住む、と決心した理由の一つが「同床異夢」。
   理由を大別すると3つかなぁ。 ひとつは人間との愛が破れたこと。 二つ目はソ連の崩壊と新ロシアの誕生以来すでに15年、ロシアが世界の自由主義諸国とほとんど同じシステムになってしまい、あの「恐いソ連」が無くなって面白くなくなったことに重ねて、ネット社会出身で知識一杯の若者が跋扈してきて自分の存在感がなくなっていることを知ることになったこと。 あと一つはごく最近に広まった個人情報のコンプライアンス(法令遵守)がこの土地でもかと息苦しく感じたからの3つでしょう。
   3年前にハバロフスクで倒れて懸命の治療とリハビリにも拘らず左半身不随と言語障害が残ってしまったことはハバロフスクを捨てる理由に入っていないのです。
   まづ第一は恋が冷めたこと。 1971年にハバロフスクを基点に活動を始めて今年で35年。 残念ながら?当時自分は既婚ではあったが28歳、まわりはガチンガチンの共産主義ソ連、船での渡航を除きハバロフスクのホテルでの滞在はというと、初めの頃は出張でひと月に1回、1週間だったけれどもロシアの若き女性とロマンスの花が咲き乱れた。 信じられないでしょうが、当時日本ではお中元の化粧石鹸の詰め合わせの処分をどうしようか迷っていた時、ロシアではうら若き女性が廃油から作った手作りの洗濯石鹸を1個大事そうに持って来て、買ってくださいと私に近づいてきたのです。 正式の駐在員になって知り合った今の女性と同棲を始めたのがソ連崩壊後の混乱期のさ中の1993年だから、これでも既に13年も前になる。 知り合ったのはもっと前だから実に長すぎた春だった。 歳の差23歳、もちろん自分も二重生活で決心がつかずズルズル生活を続けた罪は自分に有るが、すっかり関係を清算しようと思ったのは3年前、レーニン通りの交差点で転んだのが原因で脳梗塞、鉄道病院に入院中に彼女が今一緒に住んでいる私の持ち物の住宅を自分のものにしたいとコソコソ奔走したことを耳にして以来である。
   ハバを去ると決めた第二番目の理由は、自負が壊れたこと。 ハバに住んで30年、日本人の仲では自分だけがハバロフスクを隅々まで知っている、極東全域、ソ連、ロシアのこともまかせなさ〜い、との自負があったのだが、ソ連崩壊後もはや15年、この国が通常の市場経済体制、普通の自由主義国家になってしまい、「恐いソ連」がなくなったことと、ソ連そのものの実態やロシア語をほとんど知らない人々が自由闊達に現代ロシアを闊歩しているのに、自分は閉鎖都市や外人立ち入り禁止地区がほとんどなくなった今もある種の特権を行使できる狭い所は無いかと探している。 しかし、事態は自由主義、時代は情報氾濫社会だ。 この15年間にこのワンダーランドに入り込み、ネットブームに乗ってたくさんの知識を吸収した若者が開いたロシアに関するホームページ、ブログ、フォトギャラリー、ロシア関連サイトを読ませていただくと「負けた」と思う。 「明治は遠くなりにけり」、「老兵は消え去るのみ」の心境だ。 読んでパワーをもらったが、もはや自分の出番ではないことを悟る。 ロシアの爺さん婆さんの心境と合致するところがあり、自分で苦笑いをする。
   第3は在留日本人活動家の個人情報「過」保護に躓いたこと。 私は古い人間だから人的繋がりに頼る。 特にソ連時代は誰もが現金より友人、知人の存在を誇ったものだ。 ところが最近は個人のことを聞き出せない。 友人、知人、通行人の差は個人情報の量だった。 電子メールを使って数人に同時にメールを発信すると自己のアドレスを第三者や不特定多数に知られてしまうと抗議される。 しからばBCCではと提案してもBCCさえも使ってくれるな、と言われる。 さしさわりのないと思える来電を転電しようとすると、自分の文章が赤の他人に読まれるのは虫酸が走るから絶対ダメ、と猛抗議される始末。 名簿ではメルアドはずらりと公開されているのに、会話では個人の住所、電話番号、HPの作成者、公務員の担当職名には口をつぐむやり方にコンプライアンスというのはこんなことかと息苦しさを感じました。 「俺とお前の仲」は通用しないのです。 自分の知人はメール友達を含めてほとんどがハバロフスクにいるので生き方が違えば我慢して居残るか、立ち去ることしかしょうがない。
   このようなことで、予定では来る2006年5月8日から約3ヶ月間の私にとって最後になるハバロフスクでの長期滞在が始まる。 リハビリ体操が主な行動だが、動産、不動産の処理、お別れ会が控えている。 今後はハバに来ても滞在はホテル住まいで1週間以内だろう。 高年齢だ、不具者だ、歯槽膿漏だと捨てられるように持って行ったことはズルかったが、この歳で振られたことは恥でもないし、社会的評価が落ちる訳でもないので少しも残念でない。 ただ第二のふるさとにまでなってしまったハバロフスクを捨て去るのが残念だ。 美女が集まるハバロフスクだもの、女性に未練が無いというのはウソだし、ご婦人と相まみえることを有名芸能人のように「浮気は文化」とは言わないが、自分の道楽はどうも遺伝のせいではないかと他人事のように考えてしまいました。 きっと乱婚型遺伝子が私の身体の中で踊り狂っているのであろう、と。 昔タラス・タラソビッチ・タラソフと呼ばれたことを思い出した。(完)


地元の学生さんたちのスピーチ 連載・第3回

二種類の日本語

エイワゾワ・サビーナ・イリハーモブナ/極東国立人文大学(旧ハバロフスク国立教育大学)

 皆さん、ロシアの日本語を学習する学生達にとって日本語で一番難しいのは何だと思いますか?漢字だと思いますか。そうではありません。実は敬語です。私は日本語は二つの種類に分かれると思います。一つは話し言葉で、もう一つは敬語です。私にとって、漢字はそんなに難しいものではなくて、敬語の方が難しく思われます。新しい世界のように感じるからです。
 日本では会社員が他の会社の人と話すとき、社長のことを自分のように言います。それは、会社員が社長と自分の会社を一つのように感じるからです。ロシアの会社員が社長を社員のように言うと、皆は彼が態度が大きいと思うに違いません。皆さん、次の場合をご想像してください。たとえば、女の人が宝石の店に入ります。店員は年上の男性です。年上の人にたいして丁寧になるべきです。でも、買い手は店員より、目上の人だとされていますね。女の人はどうすればいいですか。そうとう微妙な質問ですよね。こう言う場合には日本人が『相手にどういう態度をとるか自分で決めてください』と言ます。
 ところで、昔のロシア語では日本語と同じように丁寧言葉があったとご存知ですか。ピョートル大帝は階級制度を導入し、階級それぞれに対して特別な待遇をしました。でも、革命のあとで、皆が同士になりました。現在は、きみとあなたしか使わず、敬語が非常にシンプルになりました。しかし、日本では今でも上下関係が残っています。日本の敬語を習うにつれて、もちろん失敗も誤解もありました。その誤解の一つについてお話ししたいと思います。
 日本の敬語というのはとても素晴らしいと思います。皆さんはよく『あそびに来てください』という表現をを使いになると思います。日本のエチケットを分からないロシア人はその挨拶を聞いて、相手が家に招待したとすぐ思うに違いありません。ロシア人は訪問するのことを電話で報告しないで、日本人の家に行きます。実は、『あそびにきてください』という言葉は形式的な招待なのです。『はじめまして』のようなものです。
 ロシア語は平等を反映しますから、皆を同じに扱います。日本人は逆に人々の立場をよく区別します。こういう訳で、ロシアの若者は店員や先生を同じに扱います。実は、それが大きな問題をおこします。皆を同じに扱うのは同じ態度で接するということです。そのため、ロシアの若者の中には礼儀ただしくなくて、乱暴な人も多いです。私たちロシア人はその理由が自分の言語だということを全然考えません。
 自分の言語が大事なことだというのは違いありません。それは社会の行動と価値に影響を与えるからです。そのため、日本の敬語に直面して、日本の社会は敬語を使うのが礼儀正しさを表すだけでなくて、人々に対して尊敬の気持を表すという文化を守っているからだと分かりました。
 日本の文化を見ると敬語はどこにでもあります。人々の中だけではなくて、人々と自然の間にも見られます。自然、人、伝統を重視し、尊敬の念を持ちます。日本人がだれでも今までその大事な原則を守っているということは誠に素晴らしいと思います。また、ロシアでは人々がお互いに丁寧にする必要を心に感じません。もしかしたら、ロシア人がもう一種類のロシア語で話せたら、社会の問題が少なくなるかもしれません。


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現代と結婚

シェルバコワ・アンナ/極東国立人文大学

 先月、私は友達の結婚式に行きました。彼女は27歳で、彼は33歳です。彼らは約5年間一緒に住んでいて、やっと結婚しました。でも、何人かの友人は自分の彼と一緒に住んでいますが、結婚は全然したくないようです。彼らは「最初に教育を受けたり、出世をしたり、お金を稼ぎたいと思うよ。その後、たぶん結婚するでしょう」と言います。その外「結婚は昔風のことで、人の自由を縛っているものだ」と考えている人もいます。結婚しないでも幸せに暮らすことができるという考えもあります。現代の青年は家族を作る希望があまりないように見えます。
 私の両親は二十歳の時にはもう結婚していました。両親の時代にはそのような結婚年齢は普通でした。現代の若者たちの大部分にとって二十歳で結婚するのはばかばかしいと感じられるのでしょう。
 最近の2,30年の間に世界は大きく変わりました。昔からの風習が忘れられて人々は新しい社会の風潮の中で暮らしています。
 このような時代に結婚は必要ないのでしょうか。皆さんはどう思いますか。私は人々は結婚した方がいいと思います。
 どうして現代の若者たちは結婚したくないのでしょうか。
 第一の理由として、相手が本当に一生の伴侶かどうか自信がないということがあります。
 私の友人の両親は彼女が小さい子どもだった時に離婚しました。今彼女は大人になって、自分は同じような体験を持ちたくないと考えています。彼女は「一緒に住んでいた彼は私の本当の伴侶かどうかまだはっきり分からない。分かった時たぶん結婚する」と言います。実際、結婚相手を間違えると自分と相手の生活はめちゃめちゃになります。
 もう一つの結婚しない理由は結婚は自分の自由を縛ったり義務が生じたりするということがあります。例えば、現代の女性は社会に認められ,活躍したいという希望があります。家庭はその希望の邪魔になることもあります。
 しかし、私にとっては、結婚にはいい点もあると思えます。例えば、結婚した夫婦が一緒に暮らし始めると、様々な問題がたくさん起こります。統計によると、困難がおこった時、夫婦はその困難を乗り越えて、お互いがもっと強く結ばれ、その後も一緒に暮らし続けていくことが多いようです。結婚しない人々は問題にぶつかると相手に簡単に「さよなら」と言います。このように、結婚は家族や人間関係を守るためにとても役立つと思います。
 家族は人生で一番大事なものだと思います。ある人はだれかを愛することと、その人とお互いにいたわり合いながら、愛を育むことを幸せと感じ、憧れます。結婚はそのような憧れを果たすことを促進して、人に孤独を打ち消す気持ちを与えると考えます。人は結婚して、相手を愛し、尊敬し、困難のある時にお互いに支え合い悲しみと喜びを分かち合って暮らすことを約束するのです。その約束をした人々は互いに信用し合い、相手に自分の人生を預けて、伴侶として一緒に一つの人生を歩みます。
 結婚によって、人々は人間関係を築くのに、必要な体験を得ていると思います。夫婦はいたわり会うこと、相手の短所ばかりを見ずに、愛することを学びます。一緒に困難を切り抜けたり、子供を育てたり、支え合ったりするのが家族です。これらは、結婚で得ることができるのです。これが真の幸福と言えるのではないでしょうか。
 ロシア語には次のような諺があります。それは「私の家は私の心の拠り所」です。これは家庭は私がいつでも受け入れられ、愛される所で、私の心の奥深くにある悩みを静められる所だという意味です。
 私は家庭が心の拠り所のような所であることを望みます。
 皆さんはいかがですか。


山下雅司さんの小説「時空の旅人」連載第5回(第弐章 時空の旅 其之 一 )


 太陽はだいぶ西の方に傾き、筏の帆の影を長く海面に落としている。
(それにしても隣に寝ているこの男は何だ?何者なのだろう?)
 顔中髭だらけで髪は伸び放題、お粗末な毛皮を纏っている。
 何処かで見た様な姿であった。それは直ぐに思い出す事が出来た。以前に博物館で見た事のある、模型で作られた古代の原始人そっくりの姿だった。
 そうして見ると筏の造りもお粗末なものだった。二つの丸木舟を繋いだだけの双胴船の様な造りをしていたが、沈まないのが不思議なくらいの貧弱な物だった。
 しかし、この状態ではどうしょうもない。島影一つ見えない大海原の上だ。
 途方に暮れて、もう一度隣の男を見下ろすと、髭だらけの顔の中に団栗の様な茶色の瞳がこちらを見つめていた。
(こんな場合、何と挨拶したらいいのだろう?)
 そんな考えが頭の中に浮かんだが、適当な言葉は出てこなかった。
 その男はやおら起き上がると、陽に手を翳し太陽の位置を確かめていた。
(多分、時間を計っているのだろう)と高木は想像した。
 翳した手から視線を戻し、まっすぐに私の眼を見つめた。
「海を漂流しているところを、筏に引き上げた」
 と、聞こえた。耳に聞こえた音ではなかったが、確かにそう聞こえた様な気がしただけだった。今度は(夜明けて間も無い頃だ)と響いてきた。どうやら相手は私の考えている事が判るらしく、それに答えている様だった。
 私の考えが読めるらしいと気がついた。直接脳波に伝わる様に相手の話す事が判る。
 テレパシィーによる会話の様だった。
「今?現在だよ。すがた形が存在する世界が現時点、すなわち現在だよ。多分、貴方が考えているよりも以上に、もっと古い時代だよ。未来から来たんだなきっと・・・」
 相手が無造作に答えた。
「紀元前?それは貴方達が勝手に決めた、時空の時間表じゃ無いの?」
 と、男は笑った。
「ここには過去、現在、未来があるだけで、私達は現在と言う時間の中で生きている。現在と言う時間は、留まる事なく流れ過去から未来へと繋がっている」
(貴方は時空の旅が出来るのですか?)
 高木は心に念じた。
「時空の旅は過去には戻れるが、未来には行けない。未来はこれから築いていく虚構の幻の世界に過ぎないからだ」
「私がここに来た様に、貴方は過去に行けるのですか?」
 高木は声に出して聞いてみた。
「過去には行く事が出来る。我々が歩んできた道だ。その気になれば、失われた太古の世界に旅は可能だ。誰にでもと言う訳では無いが、出来無い事ではない。それは選ばれた者にのみに可能な事だ」
 男は高木の脳波に自然に入り込む様に話し始めた。
「未来の予想は難しいが、過去の事なら知る事が出来る。我々が歩んで来た道だ。私達には経験と言う、懸け替えの無い財産が残されている。それは歴史と言える。失敗や苦い経験が進歩を生みだす。過去の積み重ねが、未来に繋がる事を我々は知っている。過去から学ぶ事は果てしなく多い。そして今、現在私はここに存在している」
 初めて見た時は老人とも思えたのだが、動作を見ていると、自分より遙かに若いらしいと気が付いた。この若者の話によると、どうやら過去の世界に迷い込んだらしい。
 現実主義者を自認する高木は、タイムスリップの可能性を認めない訳にはいかなかった。 マリーンと名乗るこの男の言う意味が良く理解できる。
「仲間の所に戻る途中だ。太陽があと一回昇れば、目印の島影が見えるはずだ」
 そう脳波に響いてきた。

 暗黒色の入り混じった群青色の地平線が、次第に薄紫色に変わって行く。
 夜空に描かれた星座は、その姿を朝の光の中に溶け込もうとしていた。
 明けの明星とも思える金色に輝く星が、地平線の彼方で光を増していた。
 あたりは急激に明るさが増して来て、朱をぼかした様な薄桃色の棚引く雲が、地平線の上に出現した。海と空の隙間に綾なす、地平線の海の朝焼けを初めて体験した。
 それは高木に自然の神秘と素晴らしさを再確認させた。
 少し風が出て来た様で、筏の流れが速さを増したようだ。
 呪術師の息子だと言うマリーンも、父親の元で修業を積んでいるようだ。マリーンの言葉の中に、父親に対する敬慕の念が感じられる。素晴らしい若者の様だった。
 驚く事は、一寸見ただけでマリーンの動きには寸部の無駄も無く、昨夜の夜空に広がる星の動きを読み、海の色合い、海流の速さ、風の方向、雲の流れ、太陽の位置、これらの変化に対応する古代人の航海術は、自然を相手の暮らしでは当たり前の事だろうが、それにしても驚きは隠し切れない。基本的には現在の技術の基礎をなす事を、着実に実行しているだけなのだが、この頃既に航海術の基本は出来ていたわけだ。
 知識はすべて、古代人の知恵から学んだ過去からの遺産だと言う事だが、古代人は知識や文化程度が低いと言う考えは、間違っているのでは無いだろうか?
 進んでいるとは思わないが、根源にある思考は現代人と変わらないと思った。
 そう言う意味では、動物としての人間の思考は昔も今も余り変わらないと言う事だ。
 むしろ現代人の方が心貧しく、醜くなって居るのではないだろうか?
 マリーンと話をしている内に、高木はこの素朴で純粋一途な若者が好きになり始めていた。
(これからもこの若者の助け無しでは生きてはいけない!)
 とも高木は切実に感じ取っていた。
 有史以前の自給自足の世界で、現代人が生きていけるとは如何しても思えなかった。
 今の季節は海上の波も静かで、嵐や強風などの天候異変も少なく風も穏やかで、一番海の上を渡りやすい時期だと言う。
 太陽が眼の高さまで昇った時、斜め前方をマリーンが指さした。
 高木の眼には何も見えない。広い海原が広がっているだけだ。
 島影が見えたと言う。それは太陽が頭上に達した時に証明された。
 驚くべき古代人の遠視力だった。夜空の星を眺め、獣を追い、訓練し、鍛えれば人間の身体の能力は、何処まで鍛えることが出来るのだろうか?
 人間の体は鍛えれば、無限の可能性を秘めている様に感じられた。
 大きな島影が次第にはっきりと見える距離まで近づいた。
 島の上の方に何かを形取った様な、白いものが見える。やがてそれは高木の眼にもはっきりと描かれている物が見えて来た。白い四本足の獣を描いたものらしい。
 全長一〇〇メートル以上はあると思われる。緑の中に白い絵模様がはっきり見える。
 芝生の下は白亜層の地盤なのだろう。南米、ペルーのナスカの地上絵と同じ製作方法で描かれている地上絵と思われた。芝生を剥ぎ取り地肌を露にして、ベタ塗りの方法で模様を地表に描いている英国に良く見られる地上絵だ。
 無駄な贅肉を一切排除した野性の食肉獣が長い尾をスラリと後ろに靡かせ、草原を疾走する姿にも見える。長い首は全長の三分の一は有ろうか?
 其の先には上空を見上げ、何かに驚いている様に大きく口を開き、奇妙な頭と思われる物に繋がっている。頭は四角形で中央に眼の様な点が印されている。後頭部に二本の鶏冠の様な物が左前足の上に見える。二本の前足はスラリと前に伸ばされ、右足の蹄は力強く
後ろに蹴り出されている様に見える。全長の後ろの三分の一から始まる尾の付け根には、前足より逞しい二本の後ろ足が見える。
 この時、高木はこの地上絵は『アヒントンの白馬』と言われる物と、図柄が似ている事に気が付いた。アヒントンの白馬と言われる英国のこの地上絵は、何時の頃、誰が描いた物か年代も定かではない。何の為に描かれた物なのかも謎とされている。
 二〇世紀の世界ではロンドンの南西、ソウルズベリ平原の外れに位置し、谷に落ち込む斜面に描かれている地上絵で、其の全貌は地上からは見る事が出来ず、空中からしか其の全体像は見る事が出来ない謎の地上絵と言われている物だ。
(二〇世紀の世界では、地上から眺めるこの地上絵はこの後ろ足と前足、そして胴体の腹部の一部分しか見る事が出来ない。)
 もしこの地上絵があの『アヒントンの白馬』なら、時代は定かではないが紀元前の、場所はブリテン島と言う事が出来る。
「あの模様はいつ頃描かれたの?」
 高木の質問にマリーンは知らないと答えた。
 この土地に来た時は既に描かれてあり、最近の物では無く昔の物と思われるとマリーンは言った。あの印を目標に入り江に入ると言う。
(太古の海洋民族が目印として描いたのではなかろうか?)
 そんな思いが高木の心の中にふと芽生えた。
 大小様々の島が入り江を取り囲み、入り江の中は鏡の面の様に、波一つ無い静けさに包まれていた。天然の良港と言えた。
 入り江の近くでは白い獣の模様は大き過ぎて、天を見上げる格好となるが白い岩肌が広がり、全体像が何を描いているか判らなくなっていた。
 高木の予想通りこの地上絵は、遠方から見る為の物の様に思われた。
 この地上絵は航海上の目印、海道から見える陸地の道標、そんな役目を担っていたのではないだろうか?
 海上から眺めればこの地上絵は遠くからでも其の全貌が良く見渡せる。二〇世紀の世界ではこの地上絵は内陸部深くに位置していて、そんな推測や想像は思いもよらない。
 想像だに出来無い事であった。
 この地上絵の奇妙さは頭の向きと其の形にある。ホワイト・ホース(白馬)と名付けられてはいるが、誰が見ても頭の形は馬には見えない。下から天上を見上げる様に口を大きく広げている。二本の後頭部の鶏冠の様な物は耳と言われても否定は出来ない。眼全体が頭とも言えるこの形が、この地上絵を創造の動物と言われる所以である。
この地上絵の少し下に小高い丘がある。其の下にある小さな入り江の一つに、筏を泊めて島に上陸した。筏泊めの所から、獣道のような細い道が前方の丘の上に続いている。この辺りはマリーンの一族の縄張りで、人々はこの丘を『龍の丘』と呼んでいると教えてくれた。ドラゴン・ヒルの下が舟付き場と言う訳だ。
 丘を登り木立の中を進んで行くと、右手前方に広々とした海原が、一面に見渡せる所に差しかかった。眼下の谷底の入り江には、マリーンの繋がれた粗末な筏が小さく見えた。
 灌木の木立を抜けると一面の石灰岩の白い広場に出た。かなり遠くの地平線まで見渡せる見晴らしの良い広場であった。この辺りが丘の頂上辺りらしかった。
 陽射しは穏やかで、時折通り過ぎる涼風に交じり、野鳥の囀りも聞こえてくる。
「気が付いたか?」
「何がですか?」
 と、高木は辺りを見渡して答えた。
 別に其の問いに答える様子も見せず、マリーンは歩き始めた。其の後を追いながらも、足もとの白い道を見つめながら高木は、先程のマリーンの問いかけの意味を考えていた。
 左手は緑の山肌、右手には大海原の大パノラマが広がっている。
 突然ひらめき、高木は立ち止まり足下の白い道を見つめた。
「気が付いた様だな」
 振り向いてマリーンは笑った。
「この白い道は地上絵の上なのですね」
 木立を抜けてこの白い広場に入り込んだ処から、この地上絵は描かれていたのであった。「もう少しだから元気を出して行こう」
 マリーンの励ましに大きく頷き、其の後を追った。
 この山肌に描かれた地上絵が、アヒントンの白馬なら二〇世紀とは大分様子が違い、海水面は相当上昇していると考えられる。入り江が深くまでソウルズベリ平原に食い込んでいると思われる。海水面が大分上昇していた時期らしい。
(温暖期にあたり縄文の海進期と言われる頃ではないだろうか?ブリテン島の何時の時代にあたるのだろうか?)
 常識的に考えるなら新石器時代と言える頃だと思われる。
「明日の日没前までには集落に辿り着けるだろう。良く頑張ったな」
 マリーンが焼き上がった兎の肉を差し出しながら言った。
 歩くと言う事がこんなにも、大変な事だったとは思いもよらなかった。如何に自分は歩くと言う簡単な自然な移動方法を、していなかったか反省させられた。
 考えて見れば、人間の移動の基本は自分の足で歩くと言う事なのだ。世に中が便利になり、歩くと言う行為は一日の中で次第に失われて行った。
「色々と本当に有り難うございます。助かりました」
 高木は心からマリーンに感謝していた。もし、マリーンに助けられていなければ、野たれ死にの運命にあっていただろう。一週間と生きてはいられなかっただろう。
 二〇世紀の人間に原始の生活は出来ない。まず、食料の調達が第一の問題だが、それが出来ない。大きな意味では、与えられた食料を金で買う生活に慣れ親しんだ人間に、自分の力で原始世界の食料の調達は出来ない。
 総てに電気化、機械化された文化的な生活と言われる物に、慣らされた生活にどっぷりと漬かった生活をしている現代人には、エネルギーの無い生活など出来ないのだ。
 電気、石油、エネルギー無くして、進歩の象徴である機械化された社会も機能しない。
 ロンドン、ニューヨーク、相次いで停電が起こった。大都会が一瞬にして、死んでしまった。光を失い、交通機関を奪われ、自分の足以外では人々は移動すら出来なくなった。
 光通信とか言う、文明の結晶とも言う便利な物のおかげで、被害は瞬く間にカナダまでアッと言う間に広がって行った。
(電気というエネルギーが消えてしまったら、人類は生き残れるだろうか?)
 と、考えてみる。
 日常の自分が暮らしている、身を取り巻く廻りの物を見てみれば、電気無しの生活は考えられない。冗談抜きに、お先真っ暗な状態では現代人は生きては行け無いのであった。
 不安と苛立ちで、暴動や略奪が横行し、治安は乱れ、警察は其の近代化を誇る機能も、電気無しでは役に立たない。人類の足下には問題が山積みで、戦争などしている場合では無いのである。でも、その戦争の原因を考えると、石油と言うエネルギー問題もあったわけだし、エネルギー問題は国家を戦争に巻き込む、重要なエネルギーなのだ。
 自然の資源は、石油も含め使い続ければ何時かは枯れる。他人事ではないのである。
 核燃料が注目されている。しかし、核の問題は核兵器にも繋がる表裏一体の、厄介なものだ。文明の進化が人類を滅ぼす、一例となりかねないのだ。
 燃え盛る焚火の紅蓮の炎を見つめながら高木は考えていた。
 普段ならこんな事を考えたりはしない。時間に追われ流される生活の中で、当たり前の事として文明の進化に甘んじて、そんな事は当たり前と言う考えで、考える事など無かったのであった。今、ここでは考える時間は一杯ある。
 高木には考える事以外、何も出来無いのだ。
 マリーンが登り来る月を眺めていた。満月が近いらしい。
 黄金色に輝く、大きな月が木立の上に顔を出していた。
 同じ月を数一〇キロ離れた集落で、杉浦も望郷の念に駆られながら見ていた。


☆新聞拾い読み☆

【時の深みへいたる小道】
N.I.グロデーコフ記念ハバーロフスク地方郷土誌博物館でコンスタンチーン・ベリドィーさんの著書《うずまき》のプレゼンテーションが行われました。作者の名は極東っ子たちによく知られています。作者は、ナナイ地区のダッダ村に生まれ、幼少の頃から狩猟や漁労に携わり、森のことはひとつひとつの小道に至るまで知り尽くしています。ベリドィーさんの新作は、ひじょうに独特なものです。そこには、地名学の研究、生まれ故郷の自然やそこの先住民についての詩、生きる意味についての哲学的思索が収められています。プレゼンテーションそのものが一風変わった芝居のようになったのも偶然ではありません。作者夫妻が、夫人が縫った民族衣装をまとって詩を朗読し、ナナイ人の古い物語を歌うように語りました。この本は、過ぎ去りし時の深みに分け入り、とばりをそっと開けて、太古の民族の生活の偉大な連鎖の環を見つけるための特別の著作と言えましょう。レオニード・クーグシェフ記者
(2006年1月26日付「沿アムール報知」)

【マースレニツァ(冬送りのお祭り)の時にいただくチーズ・ブリーン】
材料:小麦粉2,5カップ 卵5個 砂糖100g バター200g ミルク3カップ 塩 茶さじ3/4 チーズ300g作り方:目の細かいおろし金でチーズをすりおろす。卵黄と白身を分ける。卵黄をミルクといっしょに泡立て、すりおろしたチーズ、小麦粉、塩をそこへ加える。白身をホイップし、できた泡を生地に加える。フライパンにバターを敷いて表面がこんがりするまで焼く。一枚一枚小さめに焼くのがコツ。(2006年2月27日付「イズヴェースチヤ」)(「砂糖、バター、チーズは少なめにしたほうがよいのでは」との岡田カーチャ氏のコメントです。)



☆1980年代の春の歌☆




☆ラヂオのある暮らし☆

◎「NHKワールド・ラジオ日本」放送時間・周波数表(2006年03月26日〜2006年10月29日)




◎ロシヤ国営ラヂオ「ロシヤの声」日本語放送・周波数表(2006年03月26日〜2006年10月28日)
日本時間 21.00-22.00 短波 7315 7265
  22.00-23.00 短波 7315 7265 9640(kHz)
* HPアドレスは、http://www.vor.ru 。インターネット放送もお楽しみいただけます。
*リスナーズクラブ『日露友の会・ペーチカ』http://www003.upp.so-net.ne.jp/PECHIKA04-10-29/
*ハバロフスク支局では番組「シベリヤ銀河ステーション」のインタヴューコーナーに友情出演してく  
 ださる方を募集しております。スタヂオ見学もどうぞお気軽に。(21-41-07か32-45-46 / 岡田)



【編集後記】

今号は発行がたいへん遅れてしまいましてすみませんでした。「六花」は季刊のペースで第18号となりました。次号の原稿の締切りは、2006年6月末日です。イヴェント&暮らしの情報、離任着任メッセージ、詩歌やエッセイなどお気軽に岡田までお寄せください(職場32-45-46自宅п彦ax21-41-07/メールokada@mail.redcom.ru)。



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