六花(РИККА)冬(13)号

ハバロフスク日本人会会報    りっか  рикка     2005年冬Vol.13 


☆河原和尊さん(当日本人会OB)の俳句作品 その4☆

歩行と俳諧エチュード集

一行

2004年10月-12月

健康のために今年の5月から始めた藻岩山登山も20回となった。登山道には33基の地蔵さんがある。地蔵さんにお祈りをしながら登る年配者も多い。

 

風景はなみだにゆすれ。まことのことばはここになく修羅のなみだはつちにふる。  宮沢賢治

 

空と地に何が残らん 風に聞く

ふりそそぐ 生きてあれよと流れ星

雪しんしん おぼろ明かりの空の下

苦しさも胸突き八丁55歳

極北の月明に燃ゆ わが命

打たれ首 地獄絵図の神無月

埋めた首 白き髑髏の道となる

風の道 倒れし木々の叫び声

天然の絵巻の山に風走る

戻れない心の旅路 涙道

ゆがむ空 あふるる涙に峰の風


☆野田修一さん(ペンネーム)の詩作品☆

僕らは星のかけら 物干し場の扉をあけると 幼い日のわたしがいて 無心に 天体望遠鏡をのぞいている 暗闇に向かって ふるえながら 見つめているのは アンドロメダ銀河 二三〇万光年かなたの おとなりの銀河だ ぼくたちはどこから来て どこへ行くのだろう あるとき、突然 この時空に 放り出された わたし どこから来て どこへ行こうとも わたしは今ここにいて わたしというかたちをして しっかりと地球に立っている 遠い昔 星だったころの記憶を かすかにとどめながら そう わたしはかつて星だった 星のかけらだったのだ わたしを構成する元素が 星を構成する元素と同じだなんて びっくりするよ もういちど扉をあけると 背の高いわたしが立っていて 二人の娘にささやいている ほら、あれがペガススの四辺形で あのあたりがアンドロメダ大星雲だよ おお、わたしよ、おまえよ 星の子供よ やがて遠い旅に出るんだね たったひとりで そうして 宇宙に還っていくんだね 宇宙の塵になるんだね いつか、また どこかで会えるだろうか もはやおまえでなくなったおまえと わたしでなくなったわたしは         

 
                                                    (2004年福岡市文化芸術振興財団賞)

☆イヴェント&暮らしの情報☆

11日から市内公共交通機関の運賃が9ルーブリに値上げ(1231日付新聞「沿アムール報知」)

◎《クリスマス・ジャズ舞踏会 Рождественский джазовый бал 》ハバーロフスク地方ドラマ劇場 

 17日(金)開演18:00 問合せ31-08-09/30-68-251224日付・新聞「太平洋の星」の情報)

◎コンサートホール(シェフチェーンコ通り7開演18:30 問合せ31-63-68/32-89-51

 1月 7日《クリスマス・コンサート》 
ヴェロニーカ・カシヤーノヴァ(ソプラノ)、リュボーフィ・クリュコーヴァ(メゾ・ソプラノ)、エヴゲーニイ・アヴラメーンコ(オルガン)

 113日《旧正月コンサート》 
室内楽団“グローリヤ”、エヴゲーニイ・アヴラメーンコ(オルガン)、ヴェロニーカ・カシヤーノヴァ(ソプラノ)、クセーニヤ・アヴラメーンコ(フルート)、ロマーン・カーシン(トランペット)

 122日《ヨーロッパのサロン音楽・ウィーン》 
ハバーロフスク地方フィルハーモニーのアーチストの演奏による17世紀から20世紀にかけてのオーストリアの音楽(新聞「論拠と事実」52の情報)


シベリアで4年間抑留生活をされた木田さんのこと

馬場 進

 木田博孝さんとの再会はそれこそ40年ぶりであった。 私が大学生のとき健康をそこねて一時帰郷し、田舎(現福島県いわき市)の病院へ入院したとき同室になったのが木田さんだった。

 先日木田さんは常磐線のいわき駅(旧(たいら)駅)の改札口におだやかな初老の顔立ちで私を待っていてくださった。 

木田さんのお話しによると、、、

 『広島駅に集合した時は日本の前途に既に暗雲が立ち込める19441022日であった。 私は19歳だった。 九州の博多より当時の朝鮮の釜山に上陸、1668部隊に入隊、そこは全員で千余人は居たと思う。 一度も戦うことなく終戦、満州の開元にて武装解除され、翌年シベリアにある収容所に連行され抑留生活が始まった。 チタで3年、主に森林伐採をやらされた。 最初の場所はチタ市街より60キロあまり奥地であったろうか。 19465月頃よりチタの街に出て、主に土木工事や機関車工場で働き、日曜日などはロシアの若い将校の家の庭や建物の修理をやったりもした。 将校の奥さんが昼の食事や休憩のお茶を出してくれた。 チタで3年間の抑留生活を終えて、ナホトカの収容所に移されたが、そこは収容能力がなく、ナホトカから更に50キロも離れた場所で1年間働くことになったけれど、ようやく19498月に引揚げ、本土の土を踏むことが出来た。

 私は19歳の若さで入隊したのが幸いしたようだ。 30歳近くで補充兵として入隊した方々の多くが生命を落とされた。 怪我などの外傷は治療できたが、内服薬は全く無かったので風邪に罹り肺炎になるケースは手の施す術なく、アッと言う間に亡くなっていった。 武装解除のあと、部隊そのものはバラバラにされていた。 これは一つにまとまる集団にならないようにとの当局の考えであり、例えば、仕事から収容所へ戻る道筋では日本の歌を歌わせて精神的にリラックスさせて、反乱などが起こらぬように彼等は気を配っていたのである。 零下30度以下では屋外の作業は中止となり、室内作業となった。 通常の軍隊と違って、抑留中は兵長も伍長も二等兵も同じ身分で、監督者は選挙で決められた。』

 木田さんにとってロシア人は特別な人間でもなく、同じ人間仲間という感が深かった、とおっしゃる。 ひとつ彼の心に残って忘れられないことというのは:チタの街で何度かひとりの日本人に会ったことがある。 その方はノモンハンで捕虜となり、帰国を諦め、ここを永住の地と決めた方であった。 「せめてお名前でも」とお願いしたが「どうか訊かないで下さい」との返事だった、そうだ。

 木田さんの話はこれで終わりですが、当時の私は文学青年だった頃で、木田さんといえばあの荒れ狂う嵐の海上で「死にはしないぞ!」と叫ぶ木田青年(有島武郎の“生まれ出づる悩み”の主人公)が囚舎にいたこの木田さんと二重写しになって私の心にいささかの興奮を覚えさせられたことなどが今になって懐かしく思い起こされました。 ()

 

※以下は、新聞「福島民友」(20001220日付)に掲載された写真です。



シベリアからの復員第1船、大久丸が京都・舞鶴港  旧満州で武装解除された関東軍兵士たち(ノーヴ

に入港=1946(昭和21)年12月          ォスチ通信)



極東シベリヤ ナホトカ港の墓地に眠る 戦友

故 伊東 一雄君の 58年振りの 墓参 報告

平成161022日   伊藤 拓郎

 

 何から 書き始めて良いのか判りませんが、やはり、戦争当時の自己紹介から始めないと、彼との戦友関係も御理解願えないと思いますので、極く簡単に 軍隊に徴兵され 故 伊東 一雄君と戦友になった頃からの事から書き始めます。

 私は昭和20年1月(1945年)東北 仙台 東部22部隊 師団通信隊に現役兵として徴兵されるまで、陸軍参謀本部 第2部 第18班(中央通信諜報調査部)の無線傍受通信士(軍属)として東京都下 花小金井の 北多摩通信所で勤務して居りました。(戦時中 隣町の田無には中島飛行機の大きなエンジン工場がありました)

昭和20年1月25日(1945)仙台 東部22部隊 師団通信隊に現役兵として 入隊と同時に ベットの隣が 故 伊東 一雄君で 爾来 お互いに戦友として助け合いながら,2月始め 仙台―東京―京都―博多港まで軍用列車に乗詰めで、やっと博多に到着 博多港から 釜博連絡船、景福丸で 米軍潜水艦が跋扈する 冬の玄海灘を無事乗り切り 釜山港(プーサン)から 又列車で 元山―感興 経由 北朝鮮の 羅南市で初年兵教育を終え、1945年7月 満州東北部の間島省 図們市に新編成された、 野戦部隊 秦0000部隊(?)に転属を命ぜられて、羅南市から徒歩行軍で 清津市―古茂山―朝陽―豆満江を 渡り 図們市に移動、その後 又図們橋を渡り 北朝鮮側で ソ連軍 侵寇に備え 陣地構築中 8月9日 突如ソ連軍が豆満江対岸近くまで攻め込んで来て、敵が橋を渡り始めたら、橋を爆破する準備をしておりました。

 その様な状況下で、8月15日の終戦を迎え、その後 ソ連軍の命令で武装解除され 9月初旬に 伊東 一雄君 共々 図們市から間島省 延吉空港迄 徒歩行軍の後 捕虜として収容され、9月中旬 北朝鮮会寧工兵隊を主力に1,000名単位の作業大隊として、編成され、延吉収容所を徒歩で出発、満州東北部 琿春 経由 張鼓峰国境を越えて 45日位で ポシェト湾に到着、(極東 ソ連における最南端駅クラスノキ) 其処から 貨車でウラジオストック経由 東京ダモイ(帰国)と ソ連の若い警備兵に 騙されて、列車はドンドン北上、到着した所は 沿海州 シベリヤの中心都市 ハバロフスク市から南 車で約1時間半のホール地区ビヤジムスカヤ第16収容所で 主作業は 煉瓦工場での昼夜勤作業、伐採、土木作業、等〃 シベリヤで捕虜となり 帰国後 多数の方々が、書き残された、著書で ご存知の方も多い思いますが、食糧事情の悪さ、酷寒、ノルマ ノルマの重労働 等〃 全く同じ 思い出ばかりです。

前書きが大変長くなってしましたが。

やっと2度の 厳寒と厳しい重労働を乗り越えて 昭和22年3月中旬 ダモイ列車に乗る事が出来て、 引揚港ナホトカに 昭和22年3月25日頃(1947年)到着。待望の帰国港 ナホトカの海岸に降り立ち 湾口から日本海を眺め、愈々 乗船 帰国出来ると喜んだのもつかの間。

(今回の墓参時も ガイドさんに頼んで 当時 列車から降りた時と全く変らない 砂浜に 58年前を振りに立って 想い出が胸に迫って感慨無量で 涙しました) 

なんと 前年1946年の後半に ナホトカに到着しながら、 ナホトカ湾の凍結で引揚げ船が入港出来ず、已む無く残留 ナホトカ各地で 重労働に従事させられた先着捕虜部隊 数千名の交代要員として(我々全員が比較的 元気そうだと思われた結果と思いますが、) またまた 収容所に入れられて、幕舎生活. 製材工場、木工所、建設工事現場 等々、で重労働をさせられ 挙句に、(隊員にならないと早く帰国できないとの噂も有り)青年行動隊員に入隊を強制され、重労働を終わり、夕食を摂った後毎晩、共産主義の勉強会、各テント収容所を巡り、他の捕虜仲間達に、勉強した成果の発表、自己批判等々させられて居りました。19474月からは ほぼ 3日毎に出迎えの日本船が入港するようになり(忘れもしません最初の引揚船は明優丸)日の丸の国旗をつけた船を見送る辛さ、我々より後から到着し、先に帰国する、2千名づつの梯団の兵隊達と お互いに声を掛け合って.出身県を問い故郷に消息を 伝えて貰う等 約束をしていまし。伊東君も同郷者を見つけ、ナホトカまで無事来ているから、間もなく帰国出来るからと、伝言を依頼して居ました。

 故 伊東 一雄君を 始め我々の 他の仲間3名も この様にナホトカに残される事さえ無ければ、皆 無事に故国へ 帰国出来たのに、誠に残念です。亡くなった 1名は 製材工場で 貨車から大きな原木材を下ろす作業中、(貨車下ろしの時は 中型丸太 3〜4本を 斜めに貨車に梯子のように立て掛けて、この上を 材木を滑らせる)原木材がバランスを崩し 跳ね上がり、梯子の1本が真中から真っ二つとなり、跳ね上がり 貨車の上で 指揮をしていた人を直撃 即死。もう1名は 井戸掘り作業中、まわりの土砂が崩れ生き埋め、入院後 死亡しました。

 私達は その後 89日 ナホトカ港に 入港した 第1大拓丸で途中 台風の為 若干 予定より 遅くなりましたが、 無事 舞鶴港に入港 815日 自宅の有った 大阪に 復員できました。 舞鶴では米軍所属日系2世よる CIAの ソ連邦の 飛行場所在地とか、爆音を聞いたかと、爆音の方角とか 色々 取り調べを受けて 又 シベリヤで一緒だった 戦病死者、等〃 聞き取り調査も受けました。

勿論 伊東 一雄 君の実情も話しましたが、当時 彼は 宮城県桃生郡出身とばかり思って 申告をしましたが、思い違いで、今回 墓参前の情報で 彼は福島県が本籍地と判明、早速 福島県庁 生活福祉グループ援護恩給チームに電話を入れて、 ナホトカ墓参の事情を話し、何とか遺族の消息調査を依頼した結果、福祉領域地域福祉グープ参事から、公文書で 調査の結果 家系を継いた兄さんの長男も死亡しているとの連絡で、仮令 遺骨が帰国出来ても 気の毒にも誰も迎えて呉れる人も居ない状況で。 戦争と歳月(60)とは むごいもの 物としみじみ感じました。然し 私は今回 58年振りに墓参が出来て、私の心の錘も溶けて本当に良かったとしみじみ思って居ります。  

 

前書きが大変長くなりました。

故 伊東 一雄君との死別の思い出(病院での死亡)

彼とは前記の通り、 19451月 軍隊入隊以来 入ソ抑留生活 最後のナホトカまで 全く戦友として苦楽を共にして、助け合って来ました。

彼は 福島県の農村育ち、 私は東京生まれの大阪育ち、全く環境を異にして育ちましたが、俗に言う うまが合うと 言うのか 全てを助け合いながら仲良く過ごして来ました。捕虜時代 全期間を通して、食料不足は勿論ですが、特にビタミンC不足に悩やまされましたが、シベリヤでも 雪が解けてやっと春になると(4月中旬頃)タンポポ、アカザ、ノビル、その他 名前も知れず、食料になるかどうかも判らない 雑草類が萌え出しますが、野外作業に出ると、昼飯後及び休憩時間には 早速 一斉に野草取りに走ります。 私は 情けないことに 都会育ち どれが食べられる野草か、何処に生えて居るか さっぱり判らず、 何時も 伊東君に助けて貰うばかりで、彼は命の恩人でした。

帰還港 ナホトカに 着いても 相変わらず、作業、収容された幕舎も一緒でした。今回の墓参準備中 12年前 ロシヤ大統領 ゴルバチョフ ロシヤ大統領が 持参した、捕虜 死亡者名簿 埋葬墓地明細で 彼が 死亡した日時(1947515日)まで思い出し確認する事が 出来ましたが。

始めは、

5月初旬 先ず 私が風邪から 肺炎になり、高熱を発し 周りの戦友、特に 伊東君が 作業の疲れも、物ともせず 頭を冷やす等 あらゆる看護をしてくれたお陰で、510日頃 には 快方に向かいました ところが、誠に残念で、申し訳無い事に 私が 風邪を伝染させたものか、今度は 510日過ぎ頃から彼が 肺炎となり、連日 39度〜40度 の高熱を発し、皆の必死の看病も空しく、40度以上の発熱で、脳しょう(?)を起し、魂は既に故郷に帰ったものか、

自宅は勿論 親戚じゅうに 本当に はっきりと「伊東 一雄 只今 シベリヤより帰国いたしました」と 挨拶回りの うわ言ばかり。

見かねた収容所の日本人軍医が、ソ連側 収容所所長、軍医等に 交渉、ナホトカ軍病院に入院させる事が許されて 12日〜13日頃に 担架で運ばれ入院しましたが。

 ソ連側 病院の規則で 捕虜患者を入院させる時は、伝染病予防上(虱(シラミ)其の他の雑菌予防の為)衣類を全部脱がせ、入浴、シャワーを浴びせた上でないと、病衣を支給しないとする、入院規定で、付き添った 日本人軍医が、40度もの高熱の患者に そんな事をしたら、即 死亡してしまうと、強く主張しまたしが、規則だからと、強制的に入浴 シャワアーを浴びせられ。 先にも書きましたが、1947515日 病院で死亡。【入院 23日後でした】

私達は 労働に従事している為、誰も 付き添う事も出来ず 一人寂しく病院で亡くなり 其の知らせを 伝言で聞くのみでした。

 シベリヤで亡くなった、ソ連邦捕虜 6〜7万人の死亡者の中で、亡くなった場所、墓地、墓標も無い多数の死亡者の中で、今回の墓参で 判った事ですが、ナホトカの日本人墓地【約500柱】の中で 墓地 NO.7/6 伊東 一雄の 名盤(金属製)【写真参照】迄 判明して迷わず 即 墓参が出来た事は 彼にとっても、又 私にとっても せめてもの慰めで本当に良かったと喜んで居ります。 

このナホトカの 日本人共同墓地には 10年程前に NHK山口放送局が特集した「シベリヤ 鎮魂歌 〜抑留画家 香月 泰雄〜」の番組の中で評論家 立花 隆 氏が 墓参されて 感慨を述べて居られます。(必見です)

永くなって申し訳ありませんが、 あとがき が有ります お許しを。前記の様な事情で、私は 19478月 無事復員後 何時かは必ず墓参りをと心に誓いましたが、戦後の混乱と、スターリン時代のソ連邦は、ご存知の通り 鉄のカーテンで シベリヤ地区には 一切入国出来ず、10数年前の ソ連邦崩壊 ロシヤ国家になって やっと 抑留者協会の 代表者の方々が 団体で 慰霊墓参が出来る状態になった次第で、 私も80歳近く 体力的にも今年が最後と思い 3月に決断 旅行社旅行社探しから始め、「ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会」 代表 江口十四一様 「日本ユーラシア協会」 岩倉 啓祐 様、杉本 はるみ さん 「ハバロフスク 在住 大学 日本語教諭 杉本 治子さん」 「旅行社 ユーラス ツアーズ 大岩さん」等 皆さんの ご協力で、去る 624日から28日までの45日の計画で新潟経由 ウラジオストックーナホトカーシベリヤ鉄道―ハバロフスクのナホトカ墓地に眠る 戦友 故 伊東 一雄の霊を慰める事が出来ました。 

ナホトカ墓地 墓参に関しての エピソート

 今回の 墓参旅行計画に関しては、思いも掛けぬ有り難い 情報 その他 の事が色々と 起こり、其の都度 やはり 故 伊東 一雄 君の霊が 早く来て欲しいと 待ち望んで 居るんだなと 都度 家内と 顔を 見会わせました。

1.    今回の墓参計画の前に、もう 5〜6年になると思いますが、常に家内には シベリヤ抑留体験と 何時かはきっとナホトカまで墓参に行くんだと、 話をしており、其の理解を深めて貰うのを目的として、その第一行動として東舞鶴にある シベリヤ捕虜抑留者引揚げ記念館の訪問見学を、 第一目標に マイカー利用で 北九州港より フェリーで 神戸港に上陸 六甲山トンネルを抜けて、舞鶴道路を一路 1時間で到着、理解と感銘を深めて貰い、私もナホトカ墓参の決意を固めました。( 是非1度 見学訪問して下さい )

2.    先ず 2004年 3月に入って直ぐ 気候の良い 6月末か7月を目標に旅行計画を立て、 福岡市内の旅行業者に問い合わせしましたが、手掛かりなし。39日付け手紙で 前述 「ソ連における日本人捕虜生活体験を記録する会」代表 江口 十四一様に 実情を話し 協力方お願い、早速 シベリヤ墓参旅行を手がける ユーラス ツアーズ社を紹介頂き、同社と情報交換。

3.    ユーラスツアーズ 大岩 陽子さんには旅行の計画、手配 実施すべてお世話になり 親切な、大変良い 通訳、ガイドにも恵まれ楽しい旅行でした          

4.    一方 福岡においては日本ユーラシア協会福岡支部の所在を知り訪問。前述 岩倉さん、佐藤  さん、杉本さん等の方々にお世話になり 又 色々と御協力を頂き。岩倉さんからは、「ソビエ イト駆けある記」日ソ協会福岡支部発行レポートを佐藤さんからは、「月刊Asahi」 1991年刊行 ゴルバチョフ来日時の貴重な「抑留死亡者名簿」をお貸し頂きナホトカ墓地の埋葬確認が出来ました。 杉本嬢には 友人で ハバロフスク在住の 杉本 和子さんを紹介して頂き 安心して ハバロフスクを訪問が出来、且つ 日本語を勉強中のロシヤ人  学生さんを紹介し て頂き、日曜日は市内観光まで付き合ってもらいました。又 午後3時からは ロシヤ放送局(日本向け放送)ハバロフスク支局の岡田アナウンサーのインタービューを受け、7月30日と8月3日日本に向け 放送され 後に 日本人 聴取者からの声のレポ−トを岡田さんから メールを貰いました。又放送局のインターネットホームページ録音しました。

5.    江口様からの情報で4月15日頃と思いますが東京在住の福田 ますみさんから 電話連絡で予てからシベリヤ捕虜問題で(特に民主運動に関心)私が所属した ハバロフスク ホール地区 16or18 木村大隊長の194645日 ハバロフスク 捕虜向けの 日本新聞紙上への投稿「旧関東軍将兵への民主化推進に係わる檄文」に関して 福岡へ出張の序でに事情をお聞きしたい由で、4月18日に来福、思う存分シベリヤの話をしました。

6.      旧制中学時代の同窓会が大阪で隔年毎に開催され、私も極力出席しておりましたが、何時もクラス幹事をしてくれていた10名中、3名がなんとシベリヤ帰りとの事、(1名死亡)今回帰国後 始めて判明 運命の不思議さに驚いております。今度11月7日(日)上阪の折 会う予定。楽しみです。1名は 捕虜時代の苦難の想い出を 「私の満州、シベリヤ 五.七.五.」と 題し 自家本として 喜寿 記念に 発刊しております。もう1名は入ソ当初(19459月)からナホトカ港の増強工事に従事 帰国まで ナホトカ収容所のみで労働をさせられたと聞いておりましたので、墓参直後に、大阪に行く要件が起こり、彼は 現在 滋賀県 大津市に居住しておりますので、ナホトカの変化状態も知りたいだろうとビデオも見て貰いたいと思い、電話したところ、未だ恩讐を越えられず、話も聴きたく無い、思い出すのも嫌 とのこと、ショックでした。

7.      もう1件 最近 大阪の放送局の資料部担当をして居られる、女性からメールが入り 先述 ハ バロフスクで お世話になった杉本 和子さんの友人の由。杉本さんが遊びに来て、偶然 私の話が出て、大阪の女性は予ねてから シベリヤ捕虜問題に関心が有り、色々捕虜関係の本や資料を見たりして研究して来ているが 実際の 捕虜体験者のお話を是非 聞きたいとの希望で私も 1人でも 多く方々に シベリヤ捕虜体験を知ってもらう事が シベリヤ 凍土地帯で亡くなった、67万の死者の供養と思い喜んでお迎えし、 参考資料も沢山提供して持って帰られました。

 

***   参考資料として お薦めしたい本   ***

    アルハンゲリスキー著「プリンス近衛殺人事件」文芸春秋社 1990年 第6刷 刊行

    (「異国の丘」と言う題名で 1114日より福岡シテイー劇場で公演開始の由)

    辺見 じゅん 箸  「収容所から来た遺書」

 「ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会」発刊の捕虜体験記 歴史・総集編  ¥4,000
       〃                       沿海地方編      〃 
       〃                       ウラル以西編     〃
       〃                       民主運動編 迄 後5冊 有り。

 大変永くなりました。



                ☆前田奉司・日本センター所長へのインタヴュー☆

 20041116日の在ハバーロフスク日本センター開設10周年にちなんで、2004115日、日本センター所長室にて前田奉司(としじ)所長にインタヴューをさせていただきました。以下にその内容を掲載させていただきます。聴き手は、ロシヤ国営ラヂオ放送局「ロシヤの声」ハバーロフスク支局特派員のエカチェリーナ・メシチェリャコーヴァと岡田和也です。

Q:日本センターの目的はどういったところにあるのでしょうか?

A:日本センターは、19941116日に、モスクヴァとハバーロフスクに、日本政府とロシヤ政府の合意に基づいて、ロシヤの市場経済への移行を支援するために、日本政府による無償技術支援の一環として設立されました。その後、モスクヴァにもうひとつ、サンクト・ペチェルブールク、ニージニイ・ノーヴゴロト、ヴラヂヴォストーク、ユージノ・サハリーンスクに設けられ、現在、7ヶ所あります。

Q:受講の希望者は多いのでしょうか?

A:日本センターの講座は、毎月1件か2件。ロシヤの若手ビジネスマンを対象にして、日本から専門家を呼んでいろいろな経済セミナーをやっております。希望者は多く、選考に苦労している状況です。

Q:何か基準はあるのでしょうか?

A:まず、ビジネスマンであること。それから、その会社の上役あるいは社長からのリコメンデーションがあれば書類選考のうえ受け入れる、ということですね。

Q:このセンターの出身者は、ハバーロフスクあるいは他の、主にどちらで活躍されていますか?

A:ハバーロフスクの日本センターの出身者は、すでに4千人を超えていまして、主にハバーロフスクで働いておられますが、それ以外にも、今、ロシヤ全土で働いておられます。とくに、最近は、若手の実業家が非常に成長しておられまして、現在のロシヤの、まあハバーロフスクの経済を引っ張っておられる方がどんどん出てきておられる、ということですね。

Q:成功裡に働いている方もおられますか?

A:4千人の卒業生のなかから、今年になって活発な卒業生が集まってビジネスマンクラブというのを作りまして、それらの企業家がいろいろと活発に活動しています。

Q:日本で働いている方もいらっしゃるんですか?

A:一部いるかもしれません。日本センターの主な事業は、セミナーの開催や日本語教育ということだけではなくて、日ロ経済協力を支援すること、すなわち、卒業生のネットワークを活用してとくに極東ロシヤと日本との経済協力を支援することもひじょうに大きな目的のひとつになっておりまして、そのために今年ビジネスマンクラブを作って、彼らと日本センターが一緒になっていろいろな事業・プロジェクトを推進していく事を目指しています。

Q:聴講生の平均年齢は?

A:割りと若いんです。30台、40前後というところですね。

Q:市場経済への移行が始まってもう何年も経ちますが、定着したという感はありましょうか?

A:市場経済という考え方はだいぶ定着してきております。ただ、これからまだまだ勉強すべきことがたくさんあります。とくに近い将来、ロシヤはWTO(世界貿易機関)に参加するという大きな目標があります。WTOに参加したら、国際競争に外国の企業がどんどん入ってきます。そのためには競争力をつけないといけない。ということで、それが非常に大きな目標で、今までのように国内の産業との競争だけではだめなんですね。だから、そういう競争力をつけるためにはどうやったらいいか、ということを、いろいろなセミナーなり専門家を呼んで勉強していく必要があるし、これから非常に重要な時期ですね。

Q:ロシヤ極東の企業家は、日本の企業家にとっての素晴らしいパートナーとなる、あるいは、もうなっていますでしょうか?

A:まさに極東ロシヤには日本に必要な資源が非常にたくさんあるわけですね。資源を買うだけではなくて、極東ロシヤの企業、とくに若手実業家と日本の企業が、手を組んでパートナー、経済パートナーとなってもらう必要があるし、そういう人がだいぶ育ってきています。ただ、日本の企業家と極東ロシヤの企業家がいろいろな事業をしていくためには、まだまだ、お互いが勉強する必要がある。すなわち、日本も極東ロシヤのことをまだまだ分かっていないところがある。極東ロシヤの企業家も日本のことがまだまだよく分かっていない。そのために、お互いがもっとコンタクトをする必要がある。お互いに勉強する必要がある。それをあいだに立ってコーディネートして支援しているというのが、日本センターの仕事であって、単にものを教えるだけじゃなくて、お互いのコンタクト、ビジネスコンタクトをどんどんやってもらう、お互いの経済交流をどんどんやってもらう、日本からロシヤにどんどん来てもらう、それから、ロシヤから日本にどんどん行ってもらう、ということをこれからますます活発にしていきたいと思っています。日本にとっては極東ロシヤというのはひじょうに重要な地域で、経済パートナーをどんどん増やしていく必要がある。ロシヤの企業家にとってもそうだと思います。

Q:同センターの今後のご発展、ご活躍をお祈りしています。前田さん、どうも有り難うございました。

A:どうも有り難うございました。


☆鈴木宣平さんよりご投稿 第6弾

依存症

   自分が病態だったのが一つの理由ですが、現地リハビリのため200457月ハバロフスクに滞在中「依存症」をテーマに観察したことをひとこと。

 「ザポーイ、依存症」と聞けばすぐにアルコールとお答えになるあなたは十分お歳をめしておられます。 ロシアでもそうですが、日本でも「現代の」依存症は、お酒、ギャンブル、タバコ、ドラッグではなく、ハイテクゲーム、甘味、携帯電話です。 私の尋ね方も悪かったのですが、ロシアで「3種の神器」とは高級外車、美女、携帯電話、だそうですが、高級車はそうかなと思いますが、携帯電話は今となっては随分安くなったし、美女は差別的でどうかと思いますし、薄型大画面TVと高級マンションじゃないでしょうか。 というのは、マフィアのチンピラごときでも高級車を乗りまわし、自動車の中で半裸の美女を隣にはべらせ、にやけた顔で携帯電話を片手にしゃべりながら運転しているのをよく見ましたから。 ところで、日本での現代版3種の神器は一体何でしょうか。 デジテル関係だと思いますが、今に見ていろ、いつかは俺も稼いであれを自分のものにしてみせる、という「あれ」が3種に神器でしょう。 マフィアのステイタス・シンボルみたいなものでなく、私の場合のひとつも「プラズマ超薄型大型デジタルテレビ」ですね。 ところで今、日本では、新型携帯電話が大流行で、着メロ、メール付きはあたりまえ。 携帯電話を「電話だから話せれば良いじゃん、電話だもの」と考えるあなたは既にじゅうぶん立派なロシア的自然人です。 日本のようにカメラ付き、テレビ付き、道案内音声ナビ付き、音楽を配信してもらえる、カラオケで遊べる、本が読める、自宅のドアの鍵も懸けれる、ガスも止めれる、クレジットで買い物ができる、骨伝道方式の、また2次元コードも読み取れるテレビ携帯電話となるとロシアの若者も絶対狂っちゃうと思います。 でもロシアでもすぐにこんな携帯電話が普及すると思います。 日本の学生は授業中にノートをとらず携帯電話カメラで黒板を写すだけ、カンニングをメールでやる始末です。 日本は老人社会なのに携帯電話は若者のためだけのものか? 若者は携帯電話を自宅ではトイレにも風呂にも持ち込んでカチャカチャとメールを始めるんですよ。 朝から晩まではもちろん、いや朝まで寝ずに、夜中じゅう布団の中でカチャカチャ送信をやっている。 朝、起き上がったら早速カチャカチャと来信メールをチェック、今日の予定をカチャカチャ、出かければ耳にはCDMDのイヤホーンをつけたまま歩きながら器用にカチャカチャ、エレベーターを待つ間も寸暇を惜しんでカチャカチャ、エレベーターの中では人目をはばからずカチャカチャ、プラット・ホームで立ったままカチャカチャ、電車に乗り込んでホッとするや否や席が有っても無くても先ずカチャカチャ、優先席がそばにあるなどとんちゃくしない。 優先席のガラス窓には小さく遠慮がちに「優先席付近では携帯電話の電源を切りましょう」と日本語と英語で書いてありますが、若者はケータイに夢中で読むわけ無い。 まわりのきつい視線を無視してカチャカチャ。 日本の世論調査では、20才代の30%が「ケータイの無い生活は考えられない」と答えています。 こうだからいつも握り締めている大事な携帯電話を取り上げられるとそれこそテクノ・ストレスで禁断症状。 茫然自失、両手は広げたままで、眼は空を切っている。 ボソボソと独り言を言うか、他人の意見を聞かず、意味不明のおしゃべりとだんまり。 こうなると自律神経失調、情緒不安定、機械人間化でほとんど病気。 精神構造の故障で依存の自覚が無い、いわゆる「現代テクノ依存症」ですね、間違い無い。 大事な人と人の対面と絆(きづな)が一切無いんです。

「甘味」依存症はロシアにもあります。 ロシアに於ける資本主義の復活以来、チョコレート、チョコレート菓子の原料の輸入量はソ連時代の3倍増、とすごい突出振りです。 新聞の統計では1992年にロシアに進出したスイスの有名な食品会社「ネスレ」(英語ではネッスル、日本ではネスカフェというコーヒーが有名です)は、ロシアにおけるチョコレート分野の発展に期待しており、ロシアのチョコレート菓子の生産量を現在の43万トンから2010年には60万トンと予測しています(Interfax 25.12.2003)。 私の知人(もちろん女性です)はカリーニン通りに住んでいますが、家に居る時は、甘いものがあれば、一日中それこそ袋が空になるまでずっと食べ続けています。 知り合った時(十二年前)はこんな風じゃなかったんだが、、、しかも彼女は内科の医者。 紺屋の白袴。 警告しても分かっちゃいるんだろうが、甘味はやめられないらしい。 もちろん辛党の私も、おつまみのピーナッツ一粒食べてスパッとやめることは精神的にも肉体的にも辛いもんだけど。 甘いものを家の中で隠すと、「何か甘いもの」と大きな大人がおねだりしてくるから可愛い。 放ったらかしておくと、思考、感情、意欲が崩れてくる離脱症が始まる。 つまり、早く言うと、機嫌が急に悪くなる。 ついつい下心を出して、ええい、と甘味を与えると、突然、禁断症状が消えて笑顔が戻り、キスの雨が降る。 私の社会的立場、信用度は藻屑と消える。 ロシアのチョコレートは原料のカカオ、砂糖は昔から輸入ですが何故か製品はとびきり美味しい。 ケーキ売り場は食料品店でも一番良い場所を取っている。 その前には行列もすごい。 輸入物もおいしいですよ。 上記の会社ネスレのチョコレートの赤い箱を試してみてください。 たいして個数は無いのに120ルーブル(約500円)でちょっと高めですが、中身はきれいで、おいしいです。 ハバの家の冷蔵庫の中には時々箱だけ残っていましたっけ。 冷蔵庫の中はジャムとヨーグルトで一杯でした。 ジャムは婆さんの自家製で、娘の非常食用です。 お菓子が無くなれば、パンの切れ端やメリケン粉の薄焼き(ブリヌイ)にジャムを巻いてかぶりつくためでしょう。 ヨーグルト、スメタナやケフィールにどこで見つけたのかチョコレート菓子のかけらを放り込んで食べている。 ヨーグルトを食べているくせにポリポリ、バリバリという音がして不思議でしょう? で、聞いてみる、「おいしいか?」と。 「酸っぱさと甘さがたまらない」と答える。 さっさと病院か尼寺へ行ってくれ、この依存症めが。 

 ロシアも近年の高級チョコレート菓子とキャンディーの普及と共に、健康に配慮した商品を宣伝するテレビ番組が好まれる傾向がある。 例えば、保健、赤ちゃん、料理番組で、本当にひとこと「ココア」が健康に良い、と放送されるとたちまち当方の宿舎の食器戸棚がココアで満杯になる。 朝もココア、昼もココア、夜もココア、休憩はいつも何杯もココア。 こちらは熱い牛乳で練るのをおおせつかるのでゆっくり休む間もない。 また砂糖を入れないと不味くて飲めない。 ひとこと「日本食」がロシア人の健康に良い、とテレビさん、言ってくれないかなぁ。 このことはきっとロシア料理協会から「言うな」、ときつ〜いお達しがあるのであろう。 宣伝に踊らされて健康食品の摂取し過ぎです。 ロシアのテレビの原則は「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」。 旧ソ連時代はもちろん、プーチンがメディアを支配している現在も変わってない。 民衆はテレビに没頭して、テレビの言うままで「健康」という言葉にまどわされ、思考力はぶっ飛び、柔軟性もなにもない。 これではほとんど病気。 いくら民衆は健康志向だといっても、一般民衆の一部はテレビの健康番組依存症に近い。 これはロシアも日本もまったく同じ現象で、「テレビ健康番組 逆健康症候群」です。 「健康」という名に取り付かれ、少量ならば確かに内臓のどこかに有益なのだろうが、ココアの摂り過ぎ、砂糖の摂り過ぎで遂には不健康きわまりないことになる症状です。 「過ぎたるは及ばざるが如し」― 現代ロシア語でどう言うかは知らない。 私の知ってるのは背中を鞭でぶたれる農奴の古い諺なので、現代のロシア人は知らないでしょう。 この諺の「現代ロシア語」での表現をご存知のお方はご一報ください。 来年、日本のココアをお礼に差し上げます。 ロシア製のチョコレートは美味しいのに、ココアはまずい。 まるでハッタイ粉をさらに炒った様だ。 

 私だけでしょうか、最近ロシアがロシアらしくなくなってしまった、と思うのは。 市場主義、商業主義が戻ったのに、あのなつかしいロシア人はどこへ行ってしまったのでしょう。 冒頭で依存症はロシアでは既にアルコールではない、と言ってしまいましたが、実は私の古い頭の中ではウオッカ=ロシア人、ロシア人がロシア人であることの証は男女ともウオッカを飲むことである、つまり、ロシア人=のん兵衛、アル中と思っていました。 ところが現実はこれはエリツィンまでのこと。 彼以後はウオッカの銘柄は増えても、ウオッカの消費量はロシアではドンドン減る一方です。 一方、ロシアでのビール消費量は国産、輸入物をも含め増え続け、今ではウオッカの消費量を追い越して、ビールの消費量のみの話ではロシアはヨーロッパ、アメリカを追い越して世界一になってしまいました。 昔は国産ビールは「馬のションベン」と言われ、飲めたものではなかったが(誰も馬のションベンを飲んだヤツはいないと思うが)、ヨーロッパの技術を導入して造られたおいしい国産ビールの「振興」には自分もハバロフスクでの合弁企業勤務中の後半には頑張りました。 初めはアムール・ビール。 旧知のロシアの木材会社の社長が関係している、というので、経営していたレストランにアムール・ビールを採用。 デスコテックとビールのブームに乗ってウオッカよりたくさん売れました。 ロシア人がレストランで「冷えたビール」でもてなされたのはこれがはじめてでは? 次に、バルチカ・ビール。 テレビの全国版での宣伝にも助けられ良く売れました。 特に1番、3番、9番が。 あまりの売れ筋で、一時はコカコーラ張りにバルチカ・ビールの中にも麻薬が混入している、依存症になる、との噂をたてられました。 2002年に市内北地区に立派な、最新鋭製造工場ができ、私は空のペットボトルを持ち込んで新鮮な生ビールを充填してもらったもんです。 元来ロシア人はこんなビールや葡萄酒のような「弱い酒」は飲まなかった。 このような弱い酒を飲み始めたのは自分の国の大統領が国内でも、海外でも、さんざ酔っ払って、その醜態がテレビに映し出されて以来である。 メディアの力は恐ろしい。 他人の振り見て、自分の振りを治す、とはこのことか。 ロシアの市民も理解がある。 いや、有りすぎる。 酒を飲まない、いや、飲んでも酔っ払わない人物を自分の大統領に推挙するんだから。 ロシア人がのん兵衛だったのはソ連時代終焉までのことで、いや、エリツィン大統領退陣までのことである。 先入観、偏見は捨てませう。

 ロシアの笑い話(アネクドート)も今となっては潰えた。 今、ハバロフスクのキオースクで売っているアネクドートの小冊子はセックス・エログロナンセンスを題材にしたものばかりで、ロシア・ソビエト的な面白さは微塵もない。 永かったソ連時代、直後のロシアのアネクドートの題材はもちろん一貫して「酒」と「政治」、あとは時事を写して苦しい生活、社会主義・共産主義体制、党書記長、警察と収容所、冷戦、役人の不正、職場の不合理、憲法、法律、断水と停電、禁酒令に近い節酒令、新ロシア人などなどソ連、ロシアらしくて非常に面白かった。 革命前はきっと貴族は貴族のアネクドート、文盲の農奴は口承のジョーク、コントがあったと思われる。 以前は一貫してポルノ・セックスの下ネタ題材は「アネクドート」として表向き受け入れられなかった。 
 今のロシア人はどうしてウオッカを飲まなくなったのか。 これは、ロシア人が宵越しのカネを「持つ」ようになったためであろう。 その他の理由としては、旧ソビエト体制の愚民政策の道具だった安価なウオッカが資本主義下で値上がりしたこと、輸入物を中心においしい飲み物がウオッカと同じ位の値段で自分の回りにいくらでもあること、ウオッカの輸入物に密輸物がはびこり、国産は密造品、粗悪品がはびこり、昔の「純」のウオッカの愛好者が逃避したこと、ソ連時代は飲んで食べて働かないのがソビエト的自然人、失業は表向き存在しない、働かなくても誰かが給料を払ってくれるという旧態の観念が「競争意識」に目覚めたこと、お金はあるが買う物が無い時代から、買いたい物が有ってもお金が無い世界に突然放り出されたこと、資本主義の発展途上中でまだ「絶望」が無いこと、この世の中酔っ払いはあたりまえの考えが許されないこと、つまり酔っていては何も出来ないこと、資本主義が安定してきて農業、工業労働者が簡単に首、失職してしまうこと、酔っ払うことや昔ながらのお色気より面白いことがこの新しい資本主義の世の中にいっぱいあること、自動車が爆発的に普及したのと合わせて法令が厳しくなったこと、などが理由として挙げられる。 

 酔っ払い大統領が去り、民衆は酔わない大統領を選出した。 労働者は金儲けに奔走し、ウオッカ、アルコール離れになった。 ロシアのほとんどの労働者がビジネスマン化し、男女ともビジネスに忙しくて、ウオッカを飲まなくなった。 現代のロシア人はもう大酒飲みではありません。 ロシア人に対する偏見、先入観を捨て去る時期です。 彼らが自分のことを胸を張って言う、昔は大笑いしたところの、「人間の理想像」=「ロシア人のように酒を控えめに飲む人」は案外正しい。 こうして今ロシアではアルコール依存症は無い、イヤ、あなたの先入観よりは少なくなりました。 (完)


六花版/HPの

http://www.geocities.jp/russiabouz/ 「ろし庵」。ハバーロフスク情報満載の、当会会員の方のとても素敵なサイト。

http://www.khabkrai.ru ハバーロフスク地方66周年を機に開設された当地方の公式情報サイト。

http://ohitorisama.net 女性の売れ残り、行きそびれは昔のこと、今は「女性」が一人で楽しむ時代。 昔は立ち飲み屋に女性はいなかったのだが。 ここに紹介されているのは、なぜ女性が一人でいるかのひとり女性のプロファイル、女性が一人で楽しめるレストラン、バー、ホテル、飲み屋が満載。 海外でひとりで活躍する女性の紹介や短い自由投稿、エッセイ,女性特有の強がりクチコミもあり、一人暮らしの女性が現代社会でどのように考え、暮らしているかがわかります。

http://www.nhk.or.jp 日本のニュースはなんと言ってもNHKです。留守宅の地域の台風、地震情報を既にごらんの方は多いでしょう。

 www.nhk.or.jp/news とすると ニュースならなんでも日時分を明記して載っています。政治、経済、社会、国際、地域、スポーツと項目別の解説と項目別のビデオも見られます。

下記は行政府のHPです。 簡潔なロシア語と地方の味が楽しめます:ハバロフスクhttp://www.adm.khv.ru ハバロフスクhttp://www.khabarovsk.kht.ru 沿海 http://www.primorsky.ru ウラジオストーク市http://www.vladcity.ru サハリン州http://www.adm.sakhalin.ru ユージノサハリンスク市http://yuzhno.sakh.r モスクワ市 http://www.mos.ru ロシア大統領府 http://www.kremlin.ru

ロシア政府 http://www.government.gov.ru (以上12件、鈴木宣平さんの情報)

http://www.hotelvenus.net/ 日本映画ながら全編ハングルのみのモスクワ映画祭で注目された映画「ホテルビーナス」。先日レンタルビデオで観ましたが、背景にはウラジオの街並も伺えました。http://chichi-kaeru.com/ ロシア映画の「父、帰る」が(日本の)一部地域で公開中です。不滅の名作であるソビエト映画「惑星ソラリス」の巨匠タルコフスキ監督に迫れるか? 新人アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の注目作品です。

http://www.gaga.ne.jp/lenin/ 私自身の2004年度公開された洋画一番のお気に入りの2作品のDVDが遂に発売されます。(嬉。) ドイツ映画「グッバイレーニン」は、1016日発売予定。

http://www.79qmddr.de/  こちらは、ドイツ本家版「グッバイ・レーニン」公式サイトです。

http://www.tennis-japan.com/maria/ 今やTVのスポーツ番組や新聞のスポーツ欄を賑わせているロシア出身で、現在アメリカ在住の女子テニスプレイヤーのロシアン・ビューティーとか、ロシアの妖精とも言われ、マスコミを騒がせているマリア・シャラポア選手が判るサイトです。テニスファンの方は、要チェックです。!!!

http://www.ok.vl.ru/ ヴラヂヴォストークのラヂオ局「スタヂオ・オーケィ」

http://www.skazka.no/anthems/video.html ロシア国歌が視聴出来るサイト。 サンクトペテルブルグ在住のVadim Makarov氏のサイトのRussian anthemの所をクリックすると、現行の物、以前のロシア国歌、旧ソビエト国歌がそれぞれの時代演奏バージョンが、MP3で、視聴できます。又、名曲インターナショナルも、視聴出来ます。一番のお薦めは、RTRのビデオクリップでの2003年バージョンですが、以前のモスクワの名所クレムリンと赤の広場バージョンもあります。一部キリル文字での表記があり、文字化けが生じる時には、キリル文字対応のインストールが必要な場合もあります。画面を大きくして、ご覧下さい。                 (以上7件、富山県婦中町の小林浩さんの情報)

http://www.toonippo.co.jp/ ハバーロフスク日本人会会報「六花」をご覧の皆様はじめまして。

東奥日報新聞「WEB東奥」にてメールエッセー「Хочу!ハチュー!」 http://www.toonippo.co.jp/を連載させていただいております、いちのへ友里と申します。ハバロフスクに姉妹都市を持つ青森県に生まれ、東京外国語大学でロシア芸術について学んだことがきっかけで、現在さまざまなタレント活動を通してロシアに関わっております。エッセーは、沢山のご協力・ご支援をいただいて、未熟ながら心を込めてロシアのハチュー!なもの(興味のあるもの)をひとつひとつご紹介していくことで、ロシアに近づいていけたら、ロシアを楽しんでいただけたらという想いで連載しております。

また、NTTコミュニケーションズによる電話でお聴きいただける番組「Люблю!リュブリュー!」【アクセスTEL 0570-003303 (コンテンツ番号 0908)】では、耳で聞く「一言ロシア語レッスン」コーナーのほか、「世界初!ロシア楽器マトリョミン(マトリョーシカ型テルミン)試聴」コーナーや「おしゃれなロシアの待受画像ダウンロード」コーナーなどロシアのリュブリュー!(お気に入り)な世界の企画・ナビゲーターを務めております。

ハバロフスクの今を、そしてそこでの暮らしやイヴェントで活躍される皆様のお話を「六花」で感じながら、私自身一歩一歩、日本とロシア、特に青森とハバロフスクをつなぐタレント活動を展開していける人材になっていけるよう邁進してまいりますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。        いちのへ友里

http://www.khabarovsk.ru.emb-japan.go.jp/ 在ハバロフスク日本総領事館。当地の情報満載。

http://hisgan.fc2web.com 「六花」のバックナンバーが読めるサイト。

【訂正】前号で、http://www.plstinumarena.ru スポーツ興行コンプレックス《プラチナ・アリーナПлатинум  арена)》、とご案内いたしましたが、http://www.platinumarena.ru の誤りでした。

* この欄、常設にしたく存じます。掲載ご希望の方、お気軽にokada@pop.redcom.ruまでご連絡ください。


☆ラヂオのある暮らし☆

NHKワールド・ラジオ日本」放送時間・周波数表(20041031日〜2005327日)


   <東南アジア向け>

     日本時間   kHz

日本語 11.00-12.00 11860

        11.00-14.00 17810

        16.00-18.00 17860

        16.00-19.00 11740

        18.00-01.00 11815

        01.00-04.00  7200

        05.00-07.00  7225

        05.00-09.00 11665

   

<アジア大陸向け>

          日本時間   kHz

日本語 11.00-12.00 17845

        11.00-14.00 15195

        16.00-17.00 15195

                     6145

                     6165

        17.00-02.00  9750

        01.00-04.00  6035

        05.00-06.00  6165

        05.00-09.00 11910

 

        06.00-07.00  9560

       

ロシア語12.30-13.00 17845

        14.30-15.00 11715

                11760

        17.00-17.30  6145

                     6165

        22.30-23.00  6190

04.00-04.20  5955


ロシヤ国営ラヂオ「ロシヤの声」日本語放送・周波数表(20041031日〜2005326日)

  日本時間 21.00-22.00  中波630 720 短波 5920 7155 

          22.00-23.00  中波630 720 短波 5920 7155 kHz

 * HPアドレスは、http://www.vor.ru 22.00-23.00の放送は、インターネットでもお聴き戴けます。

 *リスナーズクラブ『日露友の会・ペーチカ』http://www003.upp.so-net.ne.jp/PECHIKA04-10-29/


* ハバロフスク支局では番組「シベリヤ銀河ステーション」のインタヴューコーナーに友情出演してくださる方を募集しております。スタヂオ見学もどうぞお気軽に。(21-41-0732-45-46/岡田)

 

【日本人会役員会だより】長期にわたり幹事を務めてくださった杉浦弘資さんのご帰任に伴い、後任の川上徹さんが幹事を務めてくださることになりました。現在の役員会の顔ぶれ(敬称略):名誉会長:長内敬(総領事)、会長:岡田和也(ロシヤの声)、副会長:千葉修一(みちのく銀行(モスクワ))、会計幹事:嵯峨康成(副領事)、幹事:前田奉司(日本センター所長)、加藤哲久(小松製作所)、川上徹(スミテック)、宮木麻子(教育大講師)。

 

【編集後記】先の忘年会は、大勢の会員の皆さんのご参加を賜り、とても楽しく賑やかな会となりました。ご多忙のなか準備にご尽力くださいました役員の皆様、ならびに、素敵な賞品をご提供くださいました法人会員の皆様に、この場をお借りして改めて感謝申し上げます。本当に有り難うございました。

 「六花」は季刊のペースで第13号となりました。プリント版は、総領事館と日本センターに置かせて戴いております。次号の原稿の締切りは、2004年3月末日です。イヴェント&暮らしの情報、離任着任メッセージ、詩歌やエッセイなどお気軽に岡田までお寄せください
(職場32-45-46自宅пFax21-41-07/メールokada@pop.redcom.ru)。本年も宜しくお願いいたします。みなさまどうぞ佳いお年を。


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