ハバロフスク日本人会会報    りっか  рикка     2004年秋Vol.12 


                    ☆河原和尊さん(当日本人会OB)の俳句作品 その3☆

                              歩行と俳諧エチュード集

                                    一行

2004年9月

  サハリンでは、サハリン2プロジェクトの石油・ガスパイプライン建設が始まった。9月の始めにサブコン4社のベースキャンプを訪問した。ユージノサハリンスクから北へ500kmのマラジョジノエのベースキャンプで一泊し、翌朝商談し、次のサブコンのいるVAL(ノグリキの北70km)に向かった。ユージノサハリンスクから北へ700kmのVALは、日中温度が7度であった。

            紅の夏雲招く500キロ         

           十字架を刻んで走るパイプライン

           貧しさの果てなむ国ぞ 朽ちる家

           黄葉に秋を迎えて 佇む森


2004年5‐8月

 人口180万の札幌市の南に、標高530mの藻岩山がある。ロープウエイ、自動車道があり、簡単に頂上に登れる。展望は素晴らしい。軽登山で登る人は多く、私もすでに11回歩いて登った。最初は登るのに1時間半かかったが、今では1時間で登れる。

            登り道 息絶え絶えに 手を幹に

           迷い道 心わからず闇の道

           水無月の紫陽花励ます 登山道

           夏砂漠 歩くランボー脚を切る


2004年4−5月

今年の春はさくらづくしであった。松戸に居候中は、土浦、常盤のさくらを訪ね、4月の中旬には、ロシア人のアテンドをして、伊東と京都。伊豆の海に散る山さくらと染井吉野、そして京都は、染井吉野としだれさくらを堪能させてもらった。5月に入り、北海道で一番の桜の名所静内は、延長7kmの並木道のエゾザクラ。家族で訪れた。

            神風に心やすくぞまかせつる さくらの宮の花のさかりを  西行

           あこがるる心かためてつぼみ花


           幻の君が迎える花吹雪

           幾たびの花のさかりを風に舞い

           花宴 よしのしだれに山さくら

           銀色の月光渡る海の庭

           葉みどりも白さに埋もれる山さくら

           問えば問え 黙してたたずむ山さくら

           行く春を北へ送りて 目に若葉          4月末若葉が香る大手町を後にして札幌に戻った。

           霙雪(みぞれゆき) 洗うがごとく北大地    羽田から千歳に着くと札幌はみぞれ雪が降っていた。

           春卯月 吹雪いて白し笹の原

           ふるさとは龍子の胸のふくらみに    

           リハビリの友の背中に頭垂れ       



                              ☆心に沁みる貴重なお話☆


 「ロシヤの声」放送の番組「シベリヤ極東ジャーナル」にご出演くださった工科大学および極東外国語大学の日本語講師、高田裕子さんから、後日メールで、お知り合いのシベリヤ抑留体験をお持ちの方のお話を伺い、ぜひ番組で紹介させてくださいとお願いいたしましたところ、その方にさらに詳しくお話を伺ってくださいました。ぜひ多くの方と共有したいお話と思いまして、放送のほか「六花」への掲載もお願いいたしましたところ、ご快諾くださいましたので、ここに感謝とともにそのお話を写させていただきます。

【はじめに】

 現在、北海道にお住まいの森田準一さんは、現役を引退された理容師さんです。昭和20年〜24年を捕虜としてシベリアで過ごされました。樺太の豊原で終戦をむかえ、その後は複数の捕虜収容所を移動させられたとのこと。終戦前は、戦争に負けるだろうということ(それも大敗するということ)を予想していたので、戦争に負けたときは、「やっぱり」という思いだったそうです。捕虜となり、刑務所に連れて行かれたとき、「あぁ、捕虜になるんだ」と実感。ロシアの囚人が入れられていたところ(刑務所)が、捕虜収容所でした。

【黒パン】

 捕虜になってすぐの頃の出来事。森田さんは仲間と道路に座って、人を待っていました。と、目の前をロシア人兵士のジープが通り、道路の溝にはまってしまいました。森田さんたちはしばらく様子を窺っていましたが、2人で押したのでは溝から抜けられません。そこで、「手伝ってやろう」という話になり、腰を上げる者、もちろん「放っておけ」と言う者、意見の分かれる中、6人の仲間でジープに近づき、「車を押す」ジェスチャーをしてみせたところ、ジェスチャーがわかったらしく、ロシア人がそれに応える。
2人のロシア人と6人の日本人の力、一息で溝から抜け出しました。ロシア人兵士が「○○○」と、何か言いましたが、その頃まだロシア語が全くわからず、「今、何か言ったな」「ありがとう、だろう」、、、なんて仲間と話したのを憶えています。しばらくして、なぜかそのジープが戻って来ました。するとさっきの男たちが、7キロほどもあるパンを持って来てくれたのです。ろくに食べ物も食べていなかったため、それはもうみんなで喜びました。早速食べてみると・・・すっぱい、すっぱい。喜びから一転、「捕虜だからといって、腐ったパンをよこすとは!」と、パンを地面に叩き付け、ブーツで踏み潰し、怒りました。
捕虜になった直後で、まだ自分たちが"捕虜"だという自覚も薄い時期。地べたに座る日本人と、ジープに乗るロシア人。恩を仇で返される悔しさ。でも、本当に忘れないのは、このときの悔しさではなく、収容所で出されたパンを食べたときです。パンを食べた瞬間「あっ!」と思いました。あの時ロシア人がくれたパンと同じ味だったからです。黒パンが酸っぱいものだとは知らず、貴重な食料を踏み潰してしまったのです。その後、好きなだけパンが食べられるような機会はなく、本当に「失敗した」と後悔する忘れられない出来事でした。

【床屋】

 収容所の近くには、日本人が働く床屋の他、靴屋や仕立て屋もありました。森田さんは理容師ですから、同じ収容所で暮らす日本人の理髪はもちろん、ロシア人兵士の髭剃りやカットも任され、時には一人で海軍の宿舎に出向いたこともあります。そこでは髭剃りが3ルーブル、ヘアカットが5ルーブルで、夜通し働き660ルーブルも稼いだそうです。森田さんを海軍に呼んだロシア人は、「おまえの腕で稼いだお金だから持って行け」と、全額渡してくれました。しかし、それを知った同じ収容所の人間が、「みんなのために寄付しろ」と要求し、60ルーブル、いや10ルーブルすら残さず、全て持って行きました。現金が入るなんてことがないため、もちろん日本軍の上層部にとっても必要なものだとはわかりつつも、全額持たせてくれたロシア人と、全額奪っていった日本人との差が大きく心に残っています。

【食事】

 食事は1日3回ありましたが、ヒエや粟、コーリャンのお粥とパンばかりでした。収容所によっては米が出たところもあるようです。お粥はすすったらすぐになくなってしまうので、一粒ずつなめるように食べました。コーリャンなんて、人の食べるものではないと思っていましたが、とにかくお腹がすいてすいて、口に入るものなら何でもいいと思い、その辺の雑草を飯ごうに入れて煮て食べたこともあります。あるとき、「鳥を捕まえたから、煮て食べないか」と仲間に誘われました。でも他の仲間は小声で「やめておけ」と言う。どうやら本当は"ネズミ"だというのです。森田さんはとうとう食べませんでしたが、もしネズミを食べる習慣があったら食べられただろう、、、ネズミを食べている仲間は肌の血色がいい、、、と思っていたそうです。普段の食事は質素なものでしたが、お正月だけはお腹の皮が破れるほど食べられました。お正月に備えて少しずつ食料を蓄え、もちろん"本物"ではありませんが、お餅のようなものを作ったりもしました。

【時計】

 当時、日本人兵士は、ほとんど全員といっていいほど腕時計を持っていました。しかも日本製ではなく、スイス製など外国のものです。捕虜となって、まず一番にロシア人に取られたものは時計です。ロシアでは非常に高価なものだったようで、おそらく多くのロシア人兵士は、それを売っていたものと思います。
あるとき、アンドレイというロシア人が、米1俵と鮭2本、缶詰めとタバコを引き換えに、時計との交換を持ちかけてきました。実は、仲間の一人がまだ時計を持っていたのです。石鹸をくり抜き、そこにベルトを外した時計を埋め込み、更に石鹸をこすりつけ、あたかも石鹸かのように隠していたのです。それだけの物ですから、昼間、公然と交換することはできません。日にちと時間を約束し、収容所の柵の上から投げて交換することにしました。約束の日、約束の時間、約束の場所に行っても、アンドレイは何も投げてこないし、気配さえ感じられません。次の日も、その次の日も約束の場所に行きましたが、とうとうアンドレイは来ませんでした。後で聞いたところ、アンドレイは、約束のものを用意しようと盗みに入り、3年間の懲役刑を受けたとのこと。約束をしたまま、アンドレイとはとうとう会うことがありませんでした。

【食事係】

 4ヶ月間ロシア人兵士のための食事係を担当したこともあります。調理には乾燥野菜が使われました。パンを切って棚に並べておくのですが、こっそり、削るように薄く切っては自分の作業服の中にしまい、後で食べたこともあります。食べる頃にはもうボロボロで、粉のようになっているため、手ですくって食べるような状態です。食事の時間になると、ロシア人の子供たちが決まってやって来ました。空き缶を持って、余った食べ物をもらいに来るのです。お釜についた残りをこそげ落とし、分けてやります。そのときの子供の顔が忘れられず、辛い作業の中でも、「どの国も子供はかわいいな」と思ったものです。お釜を洗う前に、釜のふちについている残り物を食べられたことなどから、栄養失調になることもありませんでした。

【労働の英雄】

 森田さんは5年間の間、日本人兵士の文化部長として、壁新聞を作ったり、音楽活動もされたそうです。
普段は他の仲間と同じように作業(建物を建てるなど)に携わり、その他に床屋、また文化部長もされ、
そういったことが評価されたのか、"労働の英雄"という"賞"が与えられました。2000人のうちで約50人に与えられたもので、作業量と労働意欲を高める目的があったようです。"労働の英雄"の証として、赤い布が渡され、作業服に縫い付けるように言われました。"労働の英雄"をもらってからは、随分気持ちが楽になりました。周りの見る目が変わりましたから。

【日本へ】
 
 「いつ日本へ帰れるのか」と聞くと、答えはいつも「もうすぐ」又は「5月」と言われたそうです。5月以降がナホトカから船が出せる季節だからです。捕虜生活の5年間、常に頭にあったのは「帰ること」と「食べること」でした。ついに帰国できることになりましたが、捕虜収容所からナホトカに向かい、通常5日間ほどで船に乗れるはずが、20日間も待たされました。昭和24年8月24日、ナホトカから舞鶴に到着。港にはアメリカと日本の国旗が立っており、「アメリカに占領された」と思ったそうです。たたみのにおいをかいだ時、「あぁ、やっと日本に帰れたんだ」と実感されたとのこと。

【シベリアの会】

 札幌では、毎年3月10日に"シベリアの会"と称するシベリア抑留者の集まりがあります。3月10日は陸軍記念日でした。今みんなで話すことと言えば、やはり作業が厳しかったことです。でも、仲間の誰一人として、ロシア人を悪く言う人はいません。機会があれば、サハリンや極東ロシアを訪ねてみたいと思っています。もう捕虜じゃありませんから、帰りたい時に帰って来られますからね。


 この他にもお話いただいたことはあるのですが、掻い摘んでまとめてしまいました。ちょうど、地元(北海道)の新聞でもシベリア抑留者の記事を連載していたんですが、そこで取材を受けていた方も、「ロシア人にはいい人が多かった」と言われているんです。厳しい気候と作業で辛かったでしょうし、やはり"捕虜"としての扱いを受けていたはずです。それでもロシア人を悪く言わないのはどうしてなんだろう、、、という疑問が湧きました。きっと、森田さんも、新聞に連載されていた方も、ロシア人と"交流"されていたからだ、と思うんです。戦争っていうのは、"国"と"国"がするものであって、決して"人"と"人"の間で起こるものではないんですね。
 
 私もロシア生活5年目を迎えましたが、どこに行っても親日家が多く、非常に親切に迎えてくれます。シベリアに抑留されていた方たちの骨折り、犠牲の上に、今の生活があるように思えてきました。ハバロフスクの日本人会で、抑留者の方々の墓参をしているんですよ、と森田さんにお話したら、「シベリアにいた仲間を代表してお礼を言います。」と、頭を下げられました。多くの汗と血が流された土地だということを、実感を持って考えさせられました。(高田裕子さん・談)



                      ☆鈴木宣平さんよりご投稿 第5弾 ハバロフスク雑感(2) ☆
 

 リハビリのためハバロフスクに今年5−7月の3ヶ月間だけ滞在し、7月26日に帰国しました。滞在中お世話になった在ハバロフスクの日本人の方々にこの欄をお借りし、失礼ながら取り急ぎ書面で御礼申し上げます。感じたことの第2号です。3ヶ月間に思ったこと一切を次々、ずけずけ、一気に書きました。立腹されないで下さい。:
 
 まず街がきれいになったことです。 特に中央通りのほとんど全ての建物がいかにもロシア様式に造り替えられ、塗り替えられました。カリーニン通りとムラビヨフ大通りの南角の元ズベルバンクの上半分木造の建物がどんなになるか楽しみです。
 建設ブームは続いているようです。近代的で、ガラスでベランダと階段を覆った、買うにも借りるにも値段の高そうな高層住宅やオフィスが続々と建てられています。高層ビルは近代的な外観のもありますが、屋根周りはなんとなく古代ロシア伝統様式で、きっとこれは行政の指導でしょう。とベランダや階段を覆うのは美観と寒さ対策なのでしょう。郵便局の近所にある超モダンなビル「エル・デ・ボーテ」の建物はあまりにモダンすぎて両隣のロシア様式と調和せず、頭の固い行政の手で閉鎖に追い込まれたまま年月が経って往きます。
 歩道に細かくレンガが敷き詰められ、昔歩いた大判のコンクリート敷きの、しかもでっこぼこで、鉄筋もどきの針金の剥き出たソ連時代の歩道と違い、歩きやすく、広くなりました。ムラビヨフ大通りとイストミナ通りの北角にある工事中の食料品店「ガストロNo.1」の前面の歩道だけは現代のレンガの歩道が半分とあと半分はソ連時代かまたはもっと昔のロシア時代かは知りませんが古い敷石がはめ込まれています。どちらが歩きやすいか市民に聞いているのでしょう。河岸の公園の跡地の長い階段は段差の高さが平均化され、ソ連時代のように階段は中央で折れ、真ん中がへこみ、または左右両肩が落ち込んで、1段ごとに段差の高さが違うようなことがなくなっています。歩道には片隅に今流行りのバリアフリーの思想が取り入れられています。 
 
 街を歩いていて「外国へ来た!」、という感じがしません。歩きながら若い頃の感動を思い出しました。当時は外国へ来た!ソ連だ!と胸ワクワク、キョロキョロしたものでした。今では市内のどんな細道も、裏道も知ってしまって、自分の庭のようにどこでもどんどん歩いてしまって、すれ違うロシア人が懐かしそうに会釈してくれるのですがこちらは名前も顔も覚えてなくてメンボク無く、恥ずかしく、感動がありません。仲間どうしで日本語を話しているきっと日本人達と思える6~7人のグループに街で道を尋ねられ、当方は言語障害なもんで、片言の日本語ですが、的確に教えてあげたところ、全員から「謝々、シェ〜シェ〜」とお礼を言われてしまいました。完全に中国人と間違われてしまいました。
 車道のデコボコが整備されています。以前は市内ほど道路は穴ぼこだらけでした。郊外の道路はいつもきれいに舗装されているのです。車内で眠り込んでも、上下に揺れ出したら市内に入ったことが分かったもんです。乗っている車が市内で大きな穴ぼこにはまりこんで跳ね上げられ、舌を噛みそうになったり、こめかみに激痛が走ったり、車の天井に頭をイヤというほど打ちつけることがなくなり、大通りだけは先進国並みの道路です。また道路に白線が引かれ、左折(させつ)しやすくなりました。
 ラジオ局の前に建設中の巨大な教会を含め、次々建てられている教会の名前を覚えきれません。きれいで立派な教会ばかりで、周辺の車寄せもしゃれた街灯も整備されて、どこにお金があるのかなあ、と心配します。ロシア人はソ連時代でも信心深い人々が多かったのですが、露骨な反宗教活動がなくなり、布教が自由になり、教会が解禁されて以来急に街に、生活に、テレビに宗教色、それもロシア正教色が強くなりました。しかし、統計上ロシア第2の規模を誇るロシア正教会モスクワ総主教管区古儀式派のキリスト教儀式を見ていると、レーニンが宗教はアヘンと言ったのもうなずけます。こんなことをやってると2017年に再び赤い軍隊の蜂起があります。間違いない。 歴史は繰り返す、って言いますから。

 街には高級車、中古、ボロ自動車があふれています。当地では日本車比率は約70%でしょう。7月中旬に旅行したウラジオ、ナホトカでは街中日本車だらけで、日本車比率は9割でした。ハバロフスクは道路が良くなり、車線が整備されたのに、混んだ道路での運転マナーは1年前より悪く、もっと前のソ連時代には無かった無法運転が横行しています。杖をついて、否が応でもゆっくりと歩行していると運転手の無謀さがよく分かります。対向車線へ堂々とはみ出し、また逆走突進したり、下り坂でのスピード違反、交差点での割り込み、歩行者無視の歩道上駐車、脅しとも取れる停車線無視、右折左折の合図なしでの右左折などです。交通警官に見つかれば厳罰なのに、警官は給料が安いので、小銭稼ぎにと罰金だけ取って黙認、マフィアもどきの顔と賄賂とコネが横行しています。運ちゃんの鼻柱の高いことといったら。ウラジオよりは比較的ましですが、運転が荒っぽく、歩行者に配慮の無いのは以前通りでした。でもここでは信号が黄色の時は必ずみんなストップするから偉いと思います。日本では車も歩行者も黄色の時は注意して進め、ではなく、逆に猛スピードで走るのと大違いです。でも、日本では歩行者は交差点の赤で必ず止まるのに、ここハバロフスクでの歩行者は黄色で一旦止まり、赤で注意しながら渡っています。

 バスの運賃が7ルーブル(約27円)に値上がりしていました。バスは企業または個人経営の商業ベースバス(コマーシャル・バス)が増えに増えたのに驚きました。コマバスは路線での台数が多くて、早くて安くて(料金は市バスと同じですが必ず乗客は7ルーブルを現金で払う)便利です。従来の市バスは主に年金生活者、公務員が身分証明書で、警察や兵隊さんの制服組が無料で利用しています。もちろん子供、生徒、ごく普通の客も沢山が有料で利用していますし、コマバスには絶対乗らない、と言う頑固者もいます。客層の違いを観察します。コマバスの客は全体的に若く、一旦座席に座ると絶対に席を譲りません。老人や子供が乗ってないので当然かな。コマバスの車内では一人も逃さず全員から料金を取ろうという車掌と一方払う限りはもとを取って座って行こうと思う乗客でなんとなくトゲトゲしい雰囲気です。市バスでは若い兵隊さんが制服を着ていて無料なんだから立ってればいいのに平気で堂々と座席に座っています。周りに立っている老人や子供、私のように杖を持ったヨイヨイの人がいても知らん振りです。兵隊はどんな教育を受けているのだろうか、と思います。でも制服組以外はまだ市バスの客には譲り合いの人情が残っています。若い美人が爺さん婆さんに席を譲っているのを見るのはほほ笑ましい限りです。一方、腹が立つのは得体の知れない身分証明証をちらりと見せてタダで乗っている若造を見るときです。私は旧式の大型バスのなるべく前の方に立って、後方の座席を眺めるのを楽しみにしています。 全員が自分の方に向いて座って眼を伏せています。人々の顔を見るとここは人種の宝庫です。 特に若い女性は、こちらが酔っ払っていなくても、きれいです。白人は真っ白で(当たり前か)、いや、本当の白人は日焼けしていないとある人は肌が透き通るように白くて、ある人は石膏のような白肌で、日焼けしていると肌はピンク色に変わり、日焼けしてない場所を見てみたい!とその場所を想像しただけでバスの中でよだれが止まりません。混血は目鼻立ちがくっきりしていて、彼女がこちらを向いてまばたきするとその眼は顔より大きいのでは、と思います。こう書くとあたかも私は若い美人ばかりを見ているように思われますが、いえいえ公平に観察しています。時々アメリカから来たという黒人のおばさんにも出くわします。黒人は学生さんとスポーツ選手が多いようです。それにつけても乗っている男はこ汚い。

 インフレですかね? ここ1年間で物価は約15%は値上がりしたように思えます。なんでもみんな高くなりました。 もちろん日本に比べれば安いものもまだまだありますが、ついついソ連、ロシアのイメージで物価は安い、と決めつけていたものですから。喜ばしいことにロシアの最低賃金も1年前の2,700ルーブルから3,400ルーブル(約13,000円強)に上がっていました。しかし、高齢者への年金給付額は大統領令で月300-500ルーブル上がったとはいえ、月3,400ルーブルに達していません。 「老齢は貧困と同義語」は未だ解消されていませんでした。つまり年金生活者は最低生活水準以下の生活を余儀なくされていることなります。どうする、プーチンさん。 
 何が高い、と言っても、雑感(1)でも書いたように「医療費」が高くなりました。もっとも昔はここでは医療費はタダでしたから。田中先生が、「私設」診療所は高い、とおっしゃったので「市立」診療所をわざわざ試してきました。朝一番に行って、受付で今日受けたくもない検査表をもらうや否やすぐ705ルーブル(約2,800円)払わされました。 レントゲンから始まって、血液、心電図など6つのキャビネットを検査表とパスポートは必携、いつもの買い物袋を持ったまま1-2階を上下、あちこちウロウロ、廊下は人で一杯、「この部屋の最後はどなたですか?」と毎回聞いては列の最後部に並ぶ。たった6つの検査が終わり、この身体検査の最後に副院長女医のカウンセリングがありましたが、時間の消費は一日仕事でした(タイム イズ モーネ〜)。田中先生は私が紹介した私設診療所で待ち時間なく16もの検査を短時間でこなして総額2,400ルーブル払わされた、高い、とおっしゃいますが、私は高くないと思います(タイム イズ マネー)。どうおっしゃる、田中さん。

 カメラを持っているロシア人の半分以上が今はやりで私でも持ってない最新式のデジタルカメラを提げているのにビックリ。撮ってくれ、と頼まれて、無理やり持たされたが、複雑な構造でどうやっていいもんだか解からずドギマギ、デジタル先進国出身の私の社会的立場がありません。彼等は自宅へ持って帰ってコンピューターに取り込み、大型テレビ画面ですぐ見るそうです。進んだものです。 
 土産物がお店に豊富に並んでいます。マトリョーシカの種類が多くて数え切れません。顔は、予期した通り、かわいい女の子ばかりで、男の子の顔をしたマトリョーシカを探すのに苦労しましたが、今回イワンとバラライカを描いたものに飛びつきました。伝統的な琥珀細工、小箱、人形、マンモスのキバの彫刻、白樺細工の他にもロシア製の仮面、首飾り、ハバロフスクの水神人形など飾り物だけでもいっぱいあります。CDやDVDでは海賊版が大流行です。海賊版は売出しが早くて安い(CDが1枚110ルーブル(約420円)、DVDでも400ルーブル以下)ですが、今回お土産用に中央市場の近くで買ったCDは「チャイコフスキーの白鳥の湖」の筈なのに家でかけてみるとなんとあの有名な音楽が無く、子供用の物語の朗読が録音されていました。買うとき傷が無いか自分に向けて見せてくれたのですが、試聴無しでは誰が録音内容まで分かりますかいな。領収書を持って行って文句を言うと取り替えてくれるそうですが、海賊版の記念に、と保存しています。

 古道具屋はもうなくなったと思っていました。ロシア人は今では金持ちだし、新し物好きだから、ソ連時代に沢山有った古道具屋には見向きもしないので途絶えた、と思っていましたら、ところがドッコイ、ありました。置いてる物はもちろん時代を映して替わっていますが、中古のテレビ、洗濯機、冷蔵庫、CDプレーヤー、その他、へぇ〜こんな物まで、と言うのが狭い部屋にぎっしりつまっていました。でも私の買いたい物(家庭用ウオッカ製造機)はありませんでした。
 豊かになったロシア人をターゲットにしたビジネスも増えています。不動産に高級窓枠、ドア、高級家具、壁紙といった高級内装材、高級車、携帯電話、電子機器、郊外へ行かなくてもいい高級スーパー・マーケット、カジノとナイト・クラブ、デスコに華麗なショウ、宝石や金銀製品、靴、衣類などなどすっかり資本主義です。一部の人々が生活の豊かさを実感しています。面白いのは「夫、貸します」というビジネスです。 詳しくは調べて追って書きましょう。
 数が多くてビックリしたのはテント張りのビヤホールの数です。道路や広場を占拠して緑やブルーのテントを張り巡らせ、小旗をひらめかせています。どこのメーカーのテントが多いか調べてみることにしました。やはり地元北区に進出して、工場を持つバルチカ・ビールが1番でした。純粋地元のアムールビール、DV(極東)ビールのテントは一つもありませんでした。馬の健康が良くないのでしょうか?(これは昔ロシアのビールは馬のションベン、と言われていたため)。続いてテントが多かったのはオレンブルグ地方からロシア全国区になったピット・ビールと輸入物のゲーゼル、カールズバーグでしょう。私の愛飲しているババリアやホルステンはテントがありませんでした。テントはどこも若者向けの音楽をガンガン響かせているのを見てしかめっ面をすると、側にいた娘は「年寄り!」と非難します。ここは褒めねばなりません。さすがビール消費量世界一の国だ、と。 

 鈴木さんから笑顔が消えて日本人でないみたい、とロシア人から言われました。半身不随と言語障害、女性問題で憂鬱なんです、と答えると、以前は何時もニコニコ、ニヤニヤしていたのですぐ日本人と分かった、中国人でも韓国人でもなく、ベトナム人、モンゴル人でもないと解かった、と言います。こうしてグループで話をしている時、ロシア人は話していることを理解したときだけ笑うのに、日本人は理解した時笑う、皆が笑った時笑う、話していることがなんのことか解からなくても笑う、自分が話す時笑いながら話す、と日本人は人の何倍もニヤニヤするそうです。
 リハビリにまさかロシアで「太極拳」は期待していませんでした。なんだ、あんなもの、と思っていましたが、柔軟体操はきついものでした。左右を振り返って真後ろを見る運動、前方の1点を見つめて、頭を傾けず顔を前後左右に回す、足の裏全面で大地を踏みしめる、鶴の形、蛇の形、とたわいもない簡単な運動でしたのに、いくらリハビリとは言え基本運動を黙々と1時間続けるのはきつかった。おまけにロシア語で中国語の混じった哲学の講義もありましたが、指されても答えられませんでした。ぼんやりと「美とは快感である」というのが結論みたいでした。 頭から哲学と思うと講義のほうを分かろうとしませんでした。隣のグループは少林寺拳法もどきの動きをして、中国語で気合を入れたり、オイチ・ニー、いやイー・リャン・サン・スーとどこかで聞いてことのある言葉が聞こえてきます。 思い出しました―日本人会の上田さんが毎回チートイ・スーアンコー・ドライチ、リー・ソク・スグ・ツモ・イッパツ、 8,300と言ってあがっているあの言語です。全身で、両手で左右に円を描く太極拳体操のお陰で、身体の左半分が以前は思うように動かなかったのに、なんとか大きな運動は右と同じように動かせ、バランスを取りながらまっすぐな細い歩道もステッキなしで歩けるようになったのが最大の喜びです。言語障害が残ってしまいましたが、無口な私ですから仕方ない、とあきらめています。太極拳をロシア人がやっている、中に日本人のヨイヨイの老人も一人いる、と評判になり、地元のテレビ局「グベルニア(州政府庁)」と「ダリテレビ(DTV 極東テレビ)」の取材を受け、体操しているところを撮影されました。これが放映されるや、テレビを見た、と友人や昔の木材仲間や見知らぬ人から突然声を掛けられることがありました。 何だ、あのテレビは!写っているのはお前ばかりじゃないか、と冷やかされると照れます。レーニン・スタジアムの中の中国総領事館のすぐ側でやっているものですから、わざわざ黒塗りの車から降りてきて熱心に見学をしてくれ、こちらに向かって手を振ってくれる日本人そっくりの人もいました。我が国の前総領事に練習の模様はご説明しましたが、日本総領事館からの見学はなく残念でした。

 日本総領事館はもっと露骨に日本贔屓(にほんびいき)をすべきだと思います。日本総領事館の館員のいつもおっしゃる「何事も公平にやっております」には日ロ合弁企業勤務時代から泣かされました。私は「ホテルさっぽろ」の支配人をやっていましたし、「パルスホテル」の日本側出資会社で勤務もしましたが、1989年からロシア(当時はソ連)に本格進出して、日ソ、日ロの民間交流に励み、今合弁事業は凋落で苦労している日ロ合弁企業を最近の日本総領事館は「公平」の名のもとに応援してくれません。在ハバロフスク日本総領事館のホーム・ページの市内案内の「ホテル」の欄を見ても、後発の合弁パルスは写真入りで紹介されていても、日ロ合弁ホテルの先駆けとなった「さっぽろ」は総領事館のホームページのホテルのメイン欄はおろか、「市内のその他のホテル」にもなんと載っていないのです。中川秀夫さんがラーメンから始めて、「レストランさっぽろ」、「ホテルさっぽろ」を立ち上げ、ソ連の崩壊とロシアの蘇生を経験し、理不尽な税制と猫の目のように変わる法律に対し孤軍奮闘の結果、ホテル以外は全部ロシア側に乗っ取られ、くやしさで歯ぎしりしながら倒れ、今年の7月12日にお亡くなりになったことを思うと残念でなりません。「公平さを欠くと外交上、友好上まずい」とか「民間人とは人種が違う、民間が何をほざく」とおっしゃらず、一段下に下りてくださるか、目線を下げてくださって、もっと「露骨」に「日本人をひいき」して下さり、日本からの進出企業を露骨に応援して欲しいと思います。民間の目線までちょっと下げてくだされば民間の物の見方、考え方が分かってもらえるでしょうし、もっと在ハバ、来ハバの日本人に違和感を持たれず愛されるでしょう。安全情報は本省やモスクワ大使館から送られるアルカイダ情報も勿論大切ですが、地元密着の熱病情報を安全情報としていち早く発信されれば、と思いました。本邦では日本人がアメリカから持ち込んだ「西ナイル熱」がこの人の個人情報はグット抑えられてもメディアに登場しています。7月初めに配られた日本人会の名簿一つを採っても、個人情報「非公開の自由」を重視、危険回避のため徹底的に情報を絞り込んで、旅券法には規定があるという3ヶ月以上在留の全員の氏名は無い、住所は無い、知りたい電話番号は無い、と歯抜け同然のようなものに「取り扱い厳重注意」と大書された「名簿(住所録でない)」を一般会員は持たされていますが、一方ハバロフスクを短期間訪れる日本人は全員が事前に総領事館のホームページを読んで来ているわけじゃなし、礼儀とルールを守ることを条件に名簿を見せてもらってもせいぜいおおまかな在ハバの人数が分かるようになっているだけで、せめて総領事館がどこにあるのかの住所と勤務時間「外」、土、日、祝日の緊急連絡先電話番号を入れるよう指導すべきでしょう。総領事館の館員は在留届から抜粋した独自のより詳しい「住所録」をお持ちなのでこの点関心がないとは思います。
 日本人会のアムール河船上での総会は楽しくも印象的でした。幹事の方々、ハバロフスク勤めを終えられ、近々帰国される方々お疲れ様でした。夏の緑の街は涼しくて、きれいですが、歩行中に脳炎ダニか蚊に噛まれ高熱を出された日本人がいる、と聞くと「外地」の恐ろしさを感じます。商社会は以前は毎月一回開催されていましたし、情報交換、地元総領事館の方のお話、たま〜にですが、モスコー大使館からのご来賓のお話を聞くのを楽しみにしていましたが、私は今でも(有)さくらの担当部長をしており、社長の名代で商社会には出席できる筈なのに私の滞在中3ヶ月間に一度も声は掛かりませんでした。社長に会費を払うように言っておきませう。 (完)


                                  ☆六花版/HPの森☆

◎六花前号6ページの「HPの森」の第1項(◎「六花様、ユーロ ロシアの最新新聞情報をロシア語と日本語で訳しているサイトがあれば教えて下さい」とのメールをいただきました。御存知の方、御一報いただければ幸いです。)を参照します。尋ね人が誰か知りませんが、地方新聞の露日対訳は無い、と思います。 モスクワ市内を除き、地方新聞はその地方の政治、経済、社会記事を第1面に、あと大手全国紙のトピックスの抜粋を1日遅れで報道しています。お尋ねの「ユーロ ロシアの最新新聞情報」はまず毎日、大手全国紙の第1面をロシア語で見るしかないでしょう。 www.izvestia.ru  www.pravda.ru  www.mk.ru (moskovskiy komsomolets)  www.itar-tass.com
これらの第1面はほとんど日本の大新聞が翻訳して掲載しています。ユーロロシアだけをもっと詳しく日本語で読みたい場合は; www.hokkaido-np.co.jo (北海道新聞の「ロシア」欄) www.worldtimes.co.jp (世界日報の「ロシア」欄) www.jiji.com (時事通信社) www.kyodo.co.jp (共同通信社、 まず「各国の話題」−「ロシア、東欧」−「ロシア・東欧ファイル」)。 日本の大手新聞社、報道専門各紙はモスクワに駐在員を置いており、第1面はロシア語も日本語も同じことを書いています。 もちろんロシア語の方が翻訳より早く、詳しくニュースをつかめます。 報道関係のHPは奥へ入っていくほど「有料」になったりします。上記はここハバでも、日本にいても使えます。    (鈴木宣平さんからの情報)

◎今年はトルコで開催された歌謡コンテスト・ユーロヴィジョンでは、ウクライナのグループが優勝し、ロシヤ代表のユーリヤ・サーヴィチェヴァは、24か国の出場者中10位くらいでした。関連サイトは、こちらへ。http://www.asahi-net.or.jp/~pt2y-okmt/esc/esc.htm又は、http://eurovision.tv/
ちなみに、「ユーロビジョン協会」のサイトはこちらへ。2003年以前のユーロビジョンコンテストの歴史も完璧に判ります。http://www.eurovision.org.  (富山県婦中町在住の小林浩さんからの情報)

http://www.plstinumarena.ru スポーツ興行コンプレックス《プラチナ・アリーナ(Платинум арена)》。スケートの料金、バレーボール競技会の日程、セクションの配置図、外観や館内のスペース、カフェ《ALL STARS》やレストラン《オーヴァータイム》の内装の写真、同コンプレックス自体の記録などが掲載されています。(新聞「太平洋の星」(2004年9月4日付)の記事より)

http://www.miditext.ru/lyrics/ru/03/chasiki.html http://www.karaoke.ru/
ロシヤのカラオケサイト。民謡や最近の歌謡曲までロシヤの歌の歌詞が簡単に検索できます。

http://www.khabarovsk.ru.emb-japan.go.jp/ 在ハバロフスク日本総領事館。当地の情報満載。

www.nikkei.co.jp www.yomiuri.co.jp  www.sannkei.co.jp  www.mainichi.co.jp  www.asahi.com
www.hokkaido-np.co.jp  www.kyodo.co.jp 手軽に読める日本の主だった新聞。

http://esbooks.yahoo.co.jp 日本で「本」を探すのに便利です。検索欄あり、書名、著者名、出版社名は勿論、ジャンルでも探せます。                  (以上2件は、鈴木宣平さんからの情報)

http://hisgan.fc2web.com 「六花」のバックナンバーが読めるサイト。

http://www003.upp.so-net.ne.jp/PECHIKA04-10-29/ 日露友の会−ペーチカ
以下はこのホームページからの抜粋です。

・・・「ロシアの声」のリスナーの皆様、または、ロシアに興味がある皆様、こんにちは!
 私たち「日露友の会−ペーチカ」共同発起人は、10月29日の開局75周年記念日にロシアの声日本語放送のリスナーズクラブを発足することに致しました。
 ソ連邦の時代の「モスクワ放送」から、現在の「ロシアの声」に至るまで、同放送が日露関係に果たしてきた役割は、大変大きなものがあります。そして、その日露関係が、新しい時代を築こうとしている今、益々「ロシアの声」が、日露友好関係の発展のために、大きな存在となっていくのは、間違いありません。
 「ロシアの声日本語放送」が、益々友好のシンボルとして発展していきますように、熱い願いを込めて、私たちリスナーやロシアに興味がある人達が、ひとつになれないだろうかと思い、今回の「日露友の会−ペーチカ」の発足を考えました。 
 本会が軌道に乗れば、将来的には、ロシアの文化・スポーツ・芸能等の情報収集や情報交換、情報提供など、様々な活動に幅を広げていければ最高だと考えております!皆さんで、すばらしい会を創っていきませんか?
 まだ、「ロシアの声」を聴いたことがない人でも、ロシアへの興味があり、国際交流に興味があれば、入会OKですので、皆さんのご家族や知人、友人を、多数ご紹介下されば、幸いです。
                 2004年9月吉日  「日露友の会−ペーチカ」共同発起人一同


  * この欄、常設にしたく存じます。掲載ご希望の方、お気軽にokada@pop.redcom.ruまでご連絡ください。


☆日本人抑留者関連地・建物について☆
(総領事館のご好意により総領事館のホームページから転載させていただけることになりました。写真はHP http://www.khabarovsk.ru.emb-japan.go.jp/ でご覧いただけます)
1.プラチナ・アリーナ付近2.ジナモ公園付近3.レーニン広場付近4.その他市内中心部
5.市縁辺部 (空港方面)6.市縁辺部 (北部)7.市縁辺部 (南部)

 当地で日本人埋葬地捜索、遺骨収集、抑留者・団体の受入等を中心に、30年以上日本との交流に携わってきたガリーナ・ポタポワさんが、これまでの経験、情報を基にハバロフスクにおける日本人抑留者関連地・建物を案内してくれましたので、ここにご紹介します。

 1. プラチナ・アリーナ付近
・プラチナ・アリーナ(Платинум арена)、 住所:ул. Дикопольцева 12
 ハバロフスク市内のあちこちに当時は第16収容所の支部があり、このアリーナ前の噴水広場のある辺りにもあって、日本人将兵が収容されていました。
・第3診療所 (Поликлиника No.3)、 住所:ул. Дикопольцева 34
 この建物(1947年建設)は、当時は、第45番特別施設と呼ばれ、清朝最後の皇帝であり、満州国皇帝でもあった溥儀も、関東軍幹部将校と共にこの建物に起居させられ、尋問されました。この施設で亡くなった9人の高級将校は、ハバロフスク市営墓地に埋葬されています。なお、1962年からこの建物は診療所となりました。
 2. ジナモ公園付近
・ジナモ公園の正門 (Парк "Динамо")、 住所: ул. Карла Маркса
 昨年、この公園の正門が改修されましたが、その際、建設当時、日本人抑留者も携わっていた旨の日本語の書き付けが発見されました。なお、現在は、撤去されてしまいましたが、アムール川河岸にある文化と憩いの中央公園の門の建設にも日本人抑留者が携わっていた由です。
・ライオン像 (статуя львов)、 住所: ул. Карла Маркса 43
 ジナモ公園正門の道を挟んだ対面、カール・マルクス通りとガイダール通りの角に立っている5階建ての建物 (1階は商店、2階以上は住居) の丁度、その角辺りに2頭のライオン像があります。この像の制作にも日本人抑留者が関与した由です。
 3. レーニン広場付近
・極東公務員アカデミー(Дальневосточная академия государственной службы)、 住所: ул. Муравьева-Амурского 33
 広場からムラビヨフ・アムルスキー通りが始まるその角 (歩道橋のある側)に、ソ連崩壊前まで共産党の高級党員学校だった建物があります。この建物は、1953年に建設されましたが、その建設に日本人抑留者も従事しました。この建物は、1992年から、公務員アカデミーとなっています。
 また、現在、1階にはベネトンが入っていますが、店の入り口の上方、一番上の窓のすぐ下にページを見開いた本の彫刻が彫られていますが、建設当時は、この両ページにレーニンとスターリンの顔が飾られていましたが、現在は残っていません。
・第3市立病院 (Больница  3)、 住所: ул. Пушкина 54
 レーニン像の後ろに建つ赤煉瓦のこの建物は、今も昔も病院ですが、当時、ここで治療を受けた日本人抑留者もいた由です。
 4.その他の市内中心部
・コンサートホール (Концертный Зал)、 住所: ул. Шевченко 7
 この建物は、元々、1884年及び1914年〜16年に建設されましたが、1947年に行われた音楽コメディ劇場にするための改修に日本人抑留者が携わりました。その後、1997年、音楽コメディ劇場はカール・マルクス通りに移転し、この建物にはコンサートホールが入りました。ポタポワさんは、抑留経験のある歌手の三波春男さんがハバロフスクを訪問した際、ご本人からこの音楽コメディ劇場の改修に携わったと聞いた由です。
・アムールホテル (гостиница Амур)、 住所: ул. Ленина 29
 現在、ホテル正面は改装されましたが、このホテルの建設に日本人抑留者が従事しました (建設は1937年に開始されましたが、戦争で中断され、1953年に再開され、ホテルがオープンしたのは1960年)。ちなみに、ハバロフスクの北東400kmほど離れたところにあるコムソモーリスク・ナ・アムーレ市にもアムールホテルという名のホテルがあり、その建築にも日本人抑留者が携わったそうです。
 5. 市縁辺部 (空港方面)
・平和慰霊公苑 (Мемориальный Парк Мира)
 1995年、日本政府が建立する慰霊碑にあわせて、これに隣接する約15000uの敷地に太平洋戦争戦没者慰霊協会が慰霊公苑を建設し、ハバロフスク市に寄贈しました。この地には、以前、日本人が埋葬されており、その碑も左手の草むらの中に残されています。
 ポタポワさんは、慰霊碑設計者の話として、この地で亡くなられた方達との「対話の仕方」を教えてくれました。赤煉瓦造りの慰霊碑の真ん中に立って(ど真ん中でなければならない由)、亡くなられた方達に伝えたいことを思って、天に向かって手を差し伸べ、頭の上で大きく1つ手を叩いてみて下さい。その音に応えて、天から音が降ってくるように反響音が響きます。
・日本人墓地 (Японское кладбище)
 カール・マルクス通りを空港へ向かう途中にある市営墓地の一角に日本人墓地があります (コムソモール広場からカール・マルクス通りを通って空港まで運行されているトロリーバスNo.1のПитомник停留所が墓地の前にあります)。1945年10月に作られたこの墓地には、日本人抑留者316名が葬られています。
 6. 市縁辺部 (北部)
・住宅 (住所: ул. Тихоокеанская 125 〜131辺り)
 1階建ての木造建築の黄色い住宅が並んでいますが、これらも抑留者が建設したものと言われています。
・極東経済研究所 (Институт экономических исследований ДВО РАН、 住所: ул. Тихоокеанская 153)
 現在、極東経済研究所の建物 (1991年建設) がある辺りには第16番収容所の支部があり、収容所バラックが並んでいたそうです。
・TV搭下の建物
 市内からチハオケアンスカヤ通りをずっと行ったところに古いTV搭が立っていますが、その下の白い建物 (技術棟) も日本人抑留者が建設に携わったそうです。
 7. 市縁辺部 (南部)
・住宅(住所: ул. Шевчука 21〜27 辺り)
 この辺りにも黄色の住宅が並んでいますが、これらも抑留者が建てたものと言われています。
・船舶改修・操業施設 (РЭБ: Ремонтно-Эксплуатационная База флота、住所: ул. Пионерская)
 この船舶改修等を行う施設のすぐ近くに収容所があり、そこに収容されてこの施設で働かされた抑留者の方もいた由です。
・第16番収容所本部跡 (住所: ул. Пионерская 23 辺り)
 現在、インドゥストリアリヌィ地区区役所の辺りからピオネールスカヤ通りを横切ってアムール川岸への辺りに第16番収容所本部があった由です。
・住宅(住所: ул. Союзная  38)
 この辺りのピンク色の3階建ての住宅も日本人抑留者が建設に携わったと言われています。
・住宅(住所: ул. Краснореченская 32〜36 辺り)
 この付近にある3階建ての黄色の住宅群も日本人抑留者が建てたものと伝わっています。


                                    ☆新聞拾い読み☆

【ロシヤ極東からヴェトナムへ】
 
 航空会社"ダリアヴィア"が9月23日からヴラヂヴォストーク・ハノイ便を開設。ヴラヂヴォストークから毎週木曜日10時30分発の便。チケット代は300ドルより。     (太平洋の星20040903)

【長内敬氏の新しい任命】

 昨日、9月21日、極東連邦管区の首都で、新しい在ハバーロフスク日本総領事、長内敬氏が、仕事に着手しました。長内氏は、56歳で、外交活動の大きな経験をお持ちです。長内氏は、1974年に一橋大学社会学部を卒業後すぐに日本の外務省に入省しました。1988年には、日本の国連代表部の一等書記官に任命され、その後、在ソ連およびロシヤ日本大使館一等書記官、同参事官を務めました。長内氏は、また、ロンドンで欧州復興開発銀行における日本の代表を務め、外務省軍備管理・科学審議官組織をふくむ日本政府の様々な機関において高いポストを占めました。在ハバーロフスク日本総領事に任命されるまで、長内敬氏は、2年間在ロシヤ日本大使館の参事官のポストを占めていました。   
ゲンナーヂイ・ガポーノフ(太平洋の星20040922)                   

【ロ中間の新しい航空路】

 ロ中間に新しい航空路が開設されました。それは、シベリヤのロシヤ連邦構成共和国ハカーシヤの首都アバカーンと中国東北部の都市ハルビーンを結ぶものです。
 ハルビーン国際空港当局が明らかにしたところでは、ヴラヂヴォストークの航空会社の飛行機Tu-154が新しい航空路に就航します。フライトは毎週日曜日。所要時間は片道3時間半です。
 中国では、新しい航空路はロシヤと中国の地域間の経済、交易、文化の交流のさらなる発展を促すものとみなされています。                         (太平洋の星20040928)


                                   ☆イヴェント&暮らしの情報☆

◎文通相手を探しています。こちら今、手元にハバロフスクの学生さんとロシア語か日本語で文通をしたい、というロシア語を勉強している学生が9人います。 文通友達になってくれるまじめな、信頼できるハバロフスクの学生さんを紹介してください。
 連絡先:natsunora@ybb.ne.jp 鈴木宣平 syura.k@k8.dion.ne.jp 樫尾 譲

◎「六花」前号7ページ「イヴェント&暮らしの情報」欄の「コニャックとブランデーの違いをご存知の方がおられましたら、お教えいただけれ  ば幸いです」にたいする貴重な反響をいただいております。
   ・ブランデーとコニャックの違いは「広辞苑」や「百科事典」に載っています。(鈴木宣平さんの情報)
   ・コニャックは、フランス・コニャック地方の白葡萄を原料とした最高級のブランデーで、ちなみに、アメリカには林檎や桃から作るブラン    デーもあるそうです。(遠藤玲子さんの情報)

◎先日会員の方よりいただきました書物に、ぬか味噌なしに作れる漬け物についてのくだりがありました。 
  ビールの小瓶一本に味噌カップ一杯、砂糖、塩、酢それぞれカップ三分の一杯を入れ、よくかき混ぜて、野菜を20時間ほど漬けると、美味しい漬物ができるそうです。

◎先日、お隣の沿海地方に在住の弊局のリスナーの方が、手作りこんにゃくの素をお送りくださいました。
 さっそく青海苔も加えて刺身こんにゃく風に作ってみましたら簡単にできました。(因みに、製造者は、あいち豊田農業協同組合 愛知県豊田市西町4丁目5番地。お問合せは、0536-82-2521です)

◎10月15日(金)ハバロフスク教育大学でロシア極東・東シベリア・日本語弁論大会。14:00-17:00くらいの予定。日本人会&みちのく銀行賞(ラジカセ、パノーフ前駐日大使のフォトアルバム、即席みそ汁。いずれもみちのく銀行さんのご提供)を授与させていただきます。

◎コンサートホール(シェフチェーンコ通り7)いずれも開演18:30。(新聞「論拠と事実」39より)
 10月10日室内楽団"グローリヤ"、ゲギーナ・ドブィーチナ(ヴァイオリン、ヴラヂヴォストーク)
 10月14日ジャズ音楽コンサート、イーゴリ・ブートマン・カルテット(モスクヴァ)
 10月24日作曲家エヴケーニイ・クリィラートフ、プログラム"ロシヤより良きものありや"

◎ロシヤ国営ラヂオ「ロシヤの声」日本語放送・周波数表(2004年3月28日〜2004年10月30日)
日本時間 21.00-22.00 中波630 720 短波 5905 7135   22.00-23.00 中波630 720 短波 5905 7135 7355 (kHz)
 * HPアドレスは、http://www.vor.ru 。オンディマンドでもお聴き戴けます。

* ハバロフスク支局では番組「シベリヤ銀河ステーション」のインタヴューコーナーに友情出演してくださる方を募集しております。スタヂオ見学もどうぞお気軽に。(21-41-07か32-45-46/ 岡田)

   【日本人会役員会だより】

役員会の顔ぶれ(敬称略):名誉会長:長内敬総領事にお願いする予定です。会長:岡田和也(ロシアの声)、副会長:千葉修一(みちのく銀行(モスクワ))、会計幹事:嵯峨康成(領事)、幹事:前田奉司(日本センター所長)、杉浦弘資(スミテック)、加藤哲久(小松製作所)、宮木麻子(教育大講師)。11月下旬に恒例の忘年会を予定しております。日時決まり次第ご案内いたします。

◎7月1日、総領事公邸で、総領事、次席領事、日本人会幹部のご在席のもと「第1回安全対策連絡協議会」が開催され、嵯峨副領事より次のような安全面での注意事項の説明がありました。

・情報収集の重要性。
・脅威評価(自分が狙われる可能性の評価)
・施設の安全対策。ウィークポイントがねらわれやすいので安全性の確保を第一に。
・決まった生活・行動パターンを避ける。
・ 爆破予告などいざ何か起きた時のための備えを。
・不測の事態が起きたときには総領事館に電話連絡を。
・賄賂大国とも言われるロシヤ。賄賂に屈することでつけいれられることもあり、抵抗も必要。
・強請りに注意。ロシヤ・マフィアとの関連性を明らかにすること。

 なお、「協議会」にて下記3点のパンフレットをいただきました。今後総領事館に置いていただけるとの事ですのでご一読をお勧めいたします。

・海外へ進出する日本人・企業のための爆弾テロ対策Q&A(外務省)
・海外における脅迫事件対策Q&A(外務省領事移住部法人特別対策室)
・海外へ進出する日本人・企業のためのCBRN(化学、生物、放射性物質、核兵器)テロ対策Q&A(外務省法人特別対策室)


【編集後記】

季刊のペースで第12号となりました。なお、「六花」プリント版は、総領事館と日本センターに置かせて戴いております。次号の原稿の締切りは、2004年12月末日です。イヴェント&暮らしの情報、離任着任メッセージ、詩歌やエッセイなどお気軽に岡田までお寄せください(職場32-45-46自宅п彦ax21-41-07/メールokada@pop.redcom.ru)。それではみなさまお元気に素敵な秋を。

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六花(РИККА)秋(12)号


















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































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